悲惨、招集の元日赤従軍看護婦、体験語る=戦地でたどった過酷な運命「長文です」
太平洋戦争では、日本赤十字社の救護看護婦たちも次々と戦地へ送り出された
過酷な運命をたどった元看護婦が自らの体験を語った
※「骨と皮」戦病者続出のビルマ
岐阜県の職業軍人の家に生まれた長谷部さん(92)は、1943年10月に招集され、船で南方へ向かった
シンガポールを経由して鉄道やトラックを乗り継ぎ、到着したのはビルマだった
44年3月から、1300mの高地にあるメイミョウの121兵たん病院に勤務
アメーバ赤痢や発疹チフスなどに苦しむ兵士たちを看護した
病状に合わせておかゆやスープも作った
「東北出身の方が、『看護婦さんありがとう。お母さんが作ってくれたのと同じ味だ』と泣くんです。梅干し一つとおかゆだけでしたが、美味しかったのでしょう」
手を合わせて感謝されたが、コレラのため翌朝亡くなったという
日本軍は、インド北東部の要衝インパール攻略へ作戦を展開中だったが、補給の軽視から食料・弾薬が欠乏
飢えやマラリアなどで戦病者が続出した
「死んで行くときは骨と皮。それでも負けるとは思っていませんでした」
戦火が迫る中、長谷部さんら看護婦は軍のトラックで脱出
別の病院部隊と合流したが、そこも危なくなり、雨期の山道を泥水につかりながら、互いに支え合い、徒歩で国境を超えて2ヶ月後にタイのチェンマイにたどり着いた
途中には、おにぎりを持たせて先に行かせた患者たちが座り込み、水を求めていた
水筒のキャップで一杯ずつ口に注ぎ、「元気になって後から来てください」と、声を掛けることしかできなかったという
※八路軍に抑留、帰国は14年後
長野県出身の肥後さん(89)は、44年に応召
従軍看護婦として旧満州の興城第一陸軍病院に勤務していたが看護婦生徒を連れて野外の訓練を終え、部隊の裏門戻った際に敗戦を知らされたという
その日の夜、酒が入ると兵隊たちは荒れた
「歌う人、怒る人、泣く人。将校は肩章や襟章をむしり取って床に投げつけ、軍刀を抜いて窓ガラスを割る人もいました」
2、3日ご、激しい雨の中を部隊と共に駅まで歩き、列車で奉天(現在の瀋陽)近くまで移動
空き校舎に患者を収容したが、ハ路軍(中国共産党軍)に武装解除され、肥後さんら看護婦6人だけが抑留された
以後、中国内戦に巻き込まれ、ハ路軍の医療従事者として、傷病兵らの治療や手術に当たった
49年の中華人民共和国成立後は、人民志願軍として朝鮮戦争に参加するよう指示され、死を覚悟して国境で渡河命令を待ったという
帰国したのは招集から14年後の58年7月
34才になっていた
「侵略してもされても、戦争で物事を解決するのは絶対反対です。即、人の命を奪うことですから」
戦争問題は従軍慰安婦だけやないよ
兵士も一般人もみんな悲惨だよ
悲劇は繰り返してはいけない^ ^