小澤征爾『ボクの音楽武者修行』。
50代前半  東京都
5/3 15:15
小澤征爾『ボクの音楽武者修行』。
 最近読んだ本。小澤征爾『ボクの音楽武者修行』。
 
 
『「外国の音楽をやるためには、その音楽の生まれた土地、そこに住んでいる人間をじかに知りたい」という著者が、スクーターでヨーロッパ一人旅に向かったのは24歳の時だった……。ブザンソン国際指揮者コンクール入賞から、カラヤン、バーンスタインに認められてニューヨーク・フィル副指揮者に就任するまでを、ユーモアたっぷりに語った「世界のオザワ」の自伝的エッセイ。』 (新潮社の解説より)
 
 
 ど エ ラ イ 面 白 い 。  
 
 
 一言で言えば「痛快」ということに尽きるだろうか。

 小澤氏がヨーロッパに渡ったのは1959年、昭和39年である。ドル円は360円の固定為替レートで、新幹線は起工式が行われたばかり。当然海外旅行など夢物語の時代に、寄付や、友人たちと駆けずり回って金策したお金で渡欧を果たす。乗った船は欧州へ向かう貨物船で、小澤の部屋は船員たちのたまり場となり、酒を飲んだりおしゃべりしたり、時には音楽を教えたりする。カイロやアレキサンドリアなど経て、やっとたどり着いたヨーロッパ。ここでは「白いヘルメットにギターをかついで日の丸をつけたスクーターにまたがり」走り回る。このスクーターは動き回る足がほしいと東京中の会社を回り、富士重工から借り受けたスクーターだ。珍しがった現地の人に取り囲まれ、仲良くなる。


「五キロおきに人間のつきあいができ、五キロおきに地面に寝ころがって青い空を眺 めた。目に沁みるような青い空だった。そして美人に会うとゆっくり観察し、うまく いくと一緒にお茶を飲むこともできた。」


 そして、ブザンソンで指揮者のコンクールがあると知るが、申込期限が過ぎている。しかし、諦められない。で、どうするかと言うと、アメリカ大使館に「音楽部」があると聞いたことを思い出し、出かけていって「なんとかしてもらえないか」とお願いするのだ! 日本人が! アメリカ大使館に!

 で、なんとかしてもらって、参加したコンクールで優勝するのである!

 その後もミュンシュというアメリカの指揮者に憧れて渡米し弟子入りを申し込んだり、バーンスタインやカラヤンの知見を得て副指揮者になったりと「マンガやん!」みたいな展開が続く。

 面白いのが、本人の人柄か、作家ではないから無理に盛り上げようとしないのか、こちらからすると大事件に思えるそういうことを、さらっと数行、書いても2,3ページで終わらせるんだよね。感情とか煩悶も、オーバーに書かない。ワルツのように軽やかに、ユーモアを交えてすいすいと進んでいくのだ。

 中で一番面白かったのが、在欧の日本人家庭に呼ばれたとき、向こうがもじもじしてるものだから、あ、これは、お願い後とかあるんだな!と察して

「お子さんが音楽の道に進みたいと言ってるから、相談に乗って欲しいというお願いですか?」

と気を利かせて言ったら

「いえ、あの、刺し身を作っていただけないかと……」

と言われて呆気にとられた、という話。当時は日本料理店などヨーロッパにはなく、駐在員たちは和食恋しさに、自宅で豆腐を作っている人や屋上でナスを育てている人、もやしを作ったが全滅して、子供を亡くしたように嘆いている人などもいたという。小澤氏も例外ではなく、刺し身が食べたさに市場でタイを買い込み、自分で魚を捌いていたら名人級になっていたのだそうな。それを友達がそのご家族に言ったところ、日本食に飢えたそのご家族がたまらずーーといった展開だったらしい。もちろん料理して差し上げたらしいが、その後も何度かそういうお願いがあったらしい。世界の小澤の作るお刺身、後に自慢できたろうなあ。食べてみたかった!(笑)

 もちろんカラヤンやバーンスタインの人物像、ドイツとアメリカの音楽家の国民性など、音楽についての解説ももちろん面白かったのだが、若かりし頃の小澤征爾のパワフルでチャーミングな人柄が伝わってくる場面が、自分にはとりわけ魅力的でした。世界を巻き込みフロンティアを切り拓く人というのは、こういう人なのだろう、きっと。

 面白かった!〓
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