【愛しの美香】 25 驚異の日本新記録
午後3時、埼玉県熊谷競技場
焼けたトラックから陽炎が立ちのぼる。スタンドは立錐の余地もない。
アナウンスが響く――
「女子100メートル決勝、出場選手をご紹介します!」
美香の名が呼ばれた瞬間、スタンドの一角が沸いた。
予選 準決勝と 難なくトップの記録的タイムでゴールした、美香に注目が集まる
その中心に、前島立夫の姿があった。
白のシャツを腕まくりし、額にはうっすら汗。
遠く離れた席からでも、美香を見つめる視線はひときわ熱い。
「行けぇ、美香ぁーッ!」
スタンドの喧騒を切り裂くような声が響いた。
美香はその声を聞いていた。
まるで風に混じって、背中を押すように。
ほんのわずかに唇が動く。
(おじさん見ててや …)
ピストルを持つ審判が腕を上げた。
「位置について――」
深く腰を沈める。
「用意――」
静寂。スタンドの空気が止まる。
――「パンッ!」
乾いた発砲音が、夏空に弾けた。
美香の身体がしなやかに弾ける。
スタートダッシュで一気にリードを奪う。
風を切る音が耳を裂き、トラックが後ろに流れていく。
30m、50m、70m――2位との差がぐんぐん広がる
圧巻の走りだ
ラスト10メートル。風速+1.8。完璧な条件。
美香の体が一直線に伸びる。
白いゴールテープが頬をかすめた瞬間――
電光掲示板が光った。
「11.04」――日本新記録!」「信じられないタイムがでました!」
アナウンスの興奮ぶりで
スタンドが総立ちになり 割れんばかりの歓声に包まれた。
美香は両手を膝について息を荒げ、次の瞬間、空を見上げた。涙が汗に混じる。
遠く、スタンドに立ち 両手を挙げている立夫の姿。
それにすべての言葉が詰まっていた。
つづく