【愛しの美香】 26 ひっそりと暮らしたい
「すごい走りでしたね~~いやあ・・もう感動しました!」
と田村が駆け寄ってきた
「オリンピックに美香さんをぜひ出したいです 世界新記録は10秒49なんです!
フローレンス・グリフィス=ジョイナーさんといってアメリカの選手なんですが 身長は166センチで美香さんと同じなんです・・」
興奮した 田村に 立夫は言った
「あのな・・これが最後や もう競技には出さんで」
「・・・!!」
3日後
夏の陽射しがまだ残る埼玉の午後。
立夫の家のリビングには、三人がそろっていた。
田村はきっちりとしたスーツ姿で、手帳と資料の束をテーブルに並べている。
その隣で美香は、いつものメイド服姿のまま、少し緊張した表情で座っていた。
「前島さん 美香さんのスポンサー契約の件で、四社ほど名乗りを上げてきています」
田村が口火を切った。その言葉に、立夫は思わず眉をひそめた。
「スポンサーなあ・・」
「はい。スポーツ用品メーカーが二社、それに地元の食品会社と、あとは都内の広告代理店です」
「広告代理店?」
「はい。彼らは“中学生アスリートの奇跡”というテーマで、CM出演の話まで出しています」
立夫は、手にしていた湯飲みをゆっくりと置いた。
「あのな 何回も言うが 有名になるのは、正直いやなんや。けど、金は欲しい。これからの生活もあるしな」
「生活って?」と田村が聞き返す。
「実はな……大阪に引っ越そうと思っとる」
美香が驚いたように顔を上げた。
「えっ、引っ越すの? どうして?」
「こっちは落ち着かへん。取材も多いし、近所の目もある。大阪の長居というところに大きな競技場があるんや
俺の実家も近いし、美香も練習環境がええかもしれん 俺はな ひっそりと暮らしたいのや」
田村は静かに頷いた。
「それなら、私も一緒に行きたいです。美香さんをオリンピック選手に育てるには、今が勝負の時期です。マネージャー兼コーチとして、全力で支えます」
美香は嬉しそうに田村の顔を見つめた。
そこに立夫が怒鳴り声をはりあげた
「何回言うたらわかるんや! そんなものはもうせんのや! 田村はん あんたには悪いが 美香をこれ以上世間にさらすつもりはないのや
練習はするが 派手な競技は一切やめや!」
「・・・・」
「スポンサー契約はやる・・金が欲しいからな・・」
田村は黙って聞いていたが 立夫をまっすぐ見て言った
「前嶋さん あなたは なにか特殊な事情があるんでしょうか・・失礼ながら 何かその・・逃げておられるようなそんな気が・・」
「それは言えん・・」
毅然と突き放された 田村は引き下がるしかなかった
つづく