毎日日記を書くということは・・(^.^)
30代前半  大阪府
1/11 10:45
毎日日記を書くということは・・(^.^)
「毎日何をしたか」を書く日記は、まるでレシートの保管に似ている。
何時に起き、何を食べ、誰と会い、どこが痛かったか。確かに後から見れば「そんな日もあったな」と思い出す材料にはなる。
だが、正直に言えば、それ以上でもそれ以下でもない。

人は案外、自分の現実生活に感動していない。
だからこそ、三年前の日記を開いても「へえ」で終わる。

今日は国際情勢を語り、無能な政治家を罵倒し 切り捨てる評論家の自分がいる。別の日には、小説の中で破滅的な選択を重ねるもう一人の自分が現れる。
さらに、現実に起きた出来事を淡々と記す「常識人」も、隅の方にちゃんと控えている。

世間はこれを「妄想」と呼ぶ。だが考えてみれば、現実の人生だって 本当にあるのかないのか 蜃気楼のようなものではないか
十分にフィクション寄りであるといえる

立場に合わせて人格を切り替え、空気に合わせて言葉を選び、無難な選択を「自分の意志だったこと」にして一日を終える。
これを正気と呼ぶなら、妄想のほうがよほど誠実だ。

「今日、何をしたか」という日記が未来に残るかという問いに対する答えは、残念ながら薄情だ。
残るのは「やったこと」ではなく、「生きた感じ」だけである。そしてその感触は、往々にして現実よりも妄想の中のほうが濃い。

小説として書かれた妄想は、読み返したときにこう語りかけてくる。
「これは確かに、あのときの自分だ」と。

現実の日記は報告書だが、妄想日記は自叙伝である。しかも、実際に生きられなかった人生の分まで含めた、ある意味、贅沢な自叙伝だ。

皮肉なことに、多重の人生を紙の上で生きている人間ほど、現実では意外と地味に暮らしている。
なぜなら、欲望や怒りや野心の多くを、すでに紙の上で発散しているからだ。これは健全なのか、不健全なのか、判断は分かれるだろう。

だが一つだけ確かなのは、
年月を経て読み返したとき くだらない天気と体調ばかりの日記ではなく、本気で生きた妄想の痕跡のほうが面白いのではないか?

人は一つの人生しか生きられない、というのは建前である。
書く人間は、今日も静かに複数の人生を生きている。
しかもそれは、税金も ストレスも 後始末もいらない。(笑)

なかなか合理的で健全な生き方ではないだろうか
と思っています(^.^)

おわり
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コメント

60代半ば  栃木県

1/11 11:52

2. こんにちは🤗毎日が楽しみ🤩素敵なゆりちゃんも見れてもう~最高🥰

60代後半  東京都

1/11 10:59

1. 相変わらずナイスな身体!数年前寄りも顔付きが大人の雰囲気に成りましたね、

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