人生は邂逅であるか?
「人生は邂逅である」と言われる。もっともらしい言葉だが、実際に出会ってきた人間の顔ぶれを思い返すと、
だいぶ誇張が入っている気もする。人生を変えた出会いが一つ二つあるのは事実としても、
それ以外の大半は「なぜ知り合ってしまったのか分からない人々」で構成されている。
世の中には、「この出会いが人生の転機でした」と語りたがる人が多い。だが、その陰で「この出会いが人生の損失でした」とは、誰もあまり語らない。
なぜなら、後者は格言にならないからだ。書店に並ぶ自己啓発本は、失敗談を載せると売れないのである。(笑)
現実の人間社会における交流は、驚くほど非効率だ。気が合わない人間と気を使い、どうでもいい会話を重ね、無意味な集まりに時間を費やす。
その結果、「縁だから」「勉強になったから」という便利な言葉で、すべてを正当化する。
これは精神的な衛生技術としては優秀だが、実態はほとんど自己暗示に近い。(笑)
そこで登場するのが「人生塞翁が馬」である。
不幸と思ったことが幸福になり、幸福と思ったことが不幸になる。確かに理屈としては正しい。
だが、この言葉が頻繁に使われる理由は、未来が分からないからではない。今が納得できないからである。
ロクでもない人間と出会ったとき、人はこう思いたい。「これは伏線だ」と。だが実際には、ただのろくでもない人間である可能性のほうが高い。
人生は小説ほど親切ではない。無駄な登場人物は平然と存在するし、過ごした無駄な時間が 回収されない伏線は山ほど残る。
それでも人は出会いを続ける。なぜなら、完全に孤立する勇気もまた持っていないからだ
。結局、人間社会とは、必要と無駄の区別がつかないまま交流を続ける、集団的な惰性のシステムである。
皮肉なことに、後から「人生の転機だった」と呼ばれる出会いも、その瞬間には大抵どうでもよい顔をして現れる。
逆に、期待に満ちた出会いほど、あっさり裏切られる。これを運命と呼ぶか、偶然と呼ぶかは自由だが、少なくとも計画性はない。
結局のところ、「人生は邂逅である」という言葉は半分正しい。残りの半分は、「人生は無駄な交流でできている」という現実だ
。その無駄を受け入れるか、笑い飛ばすか、後付けで意味を与えるか。それを決めるのが、人間の最後の仕事なのかもしれない。
人生は塞翁が馬だが、
馬のフリをしたロバも、かなり混じっているのである。(笑)
おわり
コメント
1/11 14:47
3. 馬の振りしたロバって、最高に面白いですよ~。
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1/11 13:34
2. >>1 しがない平社員(再雇用)さん
(笑)
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1/11 12:02
1. yuriさん、こんにちは。
セミナー開催しますか。集まりそう。
(^o^)
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