失われた30年の元凶たち
「国家のため」「国民のため」
この言葉ほど、安っぽく、使い古され、しかも都合のいい免罪符はない。
口にする者の多くは、国家の将来像など一度も思い描いたことがない。国民の生活など、選挙ポスターの背景にぼんやり写る“その他大勢”にすぎない。
彼らの視線の先にあるのは、常にただ一つ――次の選挙だ。
今日の発言が明日の支持率にどう響くか。今日の沈黙が党内でどう評価されるか。今日、誰に頭を下げ、誰に恩を売れば、次も椅子が確保できるか。
国家?
国民?
そんなものはスピーチの合間に差し込む装飾語でしかない。
彼らは保身に汲々としながら、「責任ある立場」を演じる。責任はあるが、決断はない。権限はあるが、覚悟はない。あるのはただ、地位を失わないための計算だけだ。
皮肉なことに、こうした連中ほど「現実的」を自称する。理想を語る者を夢想家と嘲り、不都合な真実を語る者を「空気が読めない」と切り捨てる。
だが実態はどうか。権力にしがみつく姿は、老いた猿が腐った果実を離さぬ姿と何が違う。国家を語りながら、やっていることは己の延命治療にすぎない。
そして忘れてはならない。彼らが本当に愛しているのは、国でも民でもない。
権力そのものだ。回廊を歩き、秘書に囲まれ、「先生」と呼ばれる快感に溺れる――それが至福なのだ。
私腹を肥やすことは副産物にすぎない。本当のご馳走は、
「自分は特別だ」
「自分は選ばれた側だ」
という甘美な錯覚である。
こうして国家は少しずつ空洞化し、国民は「自己責任」という名の放置に晒される。
それでも彼らは言う。
「丁寧に説明していく」
――説明で飯が食えるなら、国民は飢えない。
そして「失われた30年」。まるで自然災害のように語られるが、冗談ではない。これは地震でも台風でもない。
人災であり、しかも30年放置され続けたクソらの怠慢の結晶だ。
結局のところ、
彼らが守ってきたのは国家ではない。
国民でもない。
己の椅子だ。
その脚が折れる日を、
彼らほど恐れている人種はいない。
おわり
コメント
1/19 1:28
2. 全くその通りです
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1/18 20:51
1. 先生と呼ばれるほどバカじゃなし!
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