日本ド花畑集団・・ 【被団協の対案無きクソ念仏】
被爆者が、核という言葉に過敏に反応するのは、無理もない。それは思想以前に、記憶の問題だからだ。
焼けた街、崩れた身体、奪われた時間。核とは彼らにとって、抽象的な兵器ではなく、人生を寸断した現実そのものである。
だからこそ、彼らが「核のない世界」を叫ぶこと自体を、軽んじることはできない。
誰だって、核のない世界が望ましい。それは疑いようのない前提だ。
しかし、ここで一つ、
どうしても避けて通れない問いがある。
では、対案はあるのか。
核を否定することと、核なき世界を実現することの間には、深く、暗い溝が横たわっている。
国際政治は、願望で動かない。抑止力、均衡、同盟、現実の脅威。
それらを無視して、「平和」「反核」という言葉だけを
念仏のように唱え続けるならば、それは思想ではなく、自己確認の儀式に過ぎない
被団協の主張は、純粋であるがゆえに、しばしば閉じている。それは 問いに答えず、異論に向き合わず、現実の複雑さを引き受けない。
核は絶対悪だ。だから考える必要はない。だから議論は不要だ。
その姿勢は、道徳的には理解できる。だが、政治的・戦略的には、思考停止そのものだ
平和を叫ぶことは、勇気ではない。平和をどう守るかを語ることこそが、本来、最も困難で、最も責任の重い行為だ。
核をなくせ、と言うなら、核を持たぬ国が、核を持つ国にどう向き合うのか。抑止なき世界で、力の空白をどう埋めるのか。
その問いに答えず、ただ被害の記憶だけを根拠に 声を大きくし続けるなら、
それは次第に、 単なる偏屈的視野狭窄という名の正義へと変質していく。
被団協の声は、日本にとって必要であり続ける だが、それは 「唯一の正解」であってはならない。
記憶は尊い。しかし、記憶だけでは、未来の設計図は描けない。
真に平和を願うなら、平和を守るための不都合な議論から、目を背けてはならない。
叫びは、答えではない。答えを出す努力を放棄した瞬間、正義は、ただの感情になる。
それは、彼らが最も恐れてきたはずの「暴力」と、別の形での地続きと私は思う
おわり