日本ド花畑集団・・  【被団協の対案無きクソ念仏】
30代前半  大阪府
1/19 22:06
日本ド花畑集団・・  【被団協の対案無きクソ念仏】
被爆者が、核という言葉に過敏に反応するのは、無理もない。それは思想以前に、記憶の問題だからだ。
 焼けた街、崩れた身体、奪われた時間。核とは彼らにとって、抽象的な兵器ではなく、人生を寸断した現実そのものである。

 だからこそ、彼らが「核のない世界」を叫ぶこと自体を、軽んじることはできない。
 誰だって、核のない世界が望ましい。それは疑いようのない前提だ。

 しかし、ここで一つ、
 どうしても避けて通れない問いがある。

 では、対案はあるのか。

 核を否定することと、核なき世界を実現することの間には、深く、暗い溝が横たわっている。

 国際政治は、願望で動かない。抑止力、均衡、同盟、現実の脅威。
 それらを無視して、「平和」「反核」という言葉だけを
 念仏のように唱え続けるならば、それは思想ではなく、自己確認の儀式に過ぎない

 被団協の主張は、純粋であるがゆえに、しばしば閉じている。それは 問いに答えず、異論に向き合わず、現実の複雑さを引き受けない。

 核は絶対悪だ。だから考える必要はない。だから議論は不要だ。

 その姿勢は、道徳的には理解できる。だが、政治的・戦略的には、思考停止そのものだ

 平和を叫ぶことは、勇気ではない。平和をどう守るかを語ることこそが、本来、最も困難で、最も責任の重い行為だ。

 核をなくせ、と言うなら、核を持たぬ国が、核を持つ国にどう向き合うのか。抑止なき世界で、力の空白をどう埋めるのか。

 その問いに答えず、ただ被害の記憶だけを根拠に 声を大きくし続けるなら、
 それは次第に、 単なる偏屈的視野狭窄という名の正義へと変質していく。

 被団協の声は、日本にとって必要であり続ける だが、それは 「唯一の正解」であってはならない。

 記憶は尊い。しかし、記憶だけでは、未来の設計図は描けない。

 真に平和を願うなら、平和を守るための不都合な議論から、目を背けてはならない。

 叫びは、答えではない。答えを出す努力を放棄した瞬間、正義は、ただの感情になる。

 それは、彼らが最も恐れてきたはずの「暴力」と、別の形での地続きと私は思う

おわり
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