韓国を象徴する『李承晩』というヒトモドキ
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大東亜戦争のあと、朝鮮戦争があったという事実は、多くの方がご存知のことです。
この戦争は、昭和25(1950)年6月25日~昭和28(1953)年7月27日の停戦まで戦闘行為が続きました。
今でも、南北朝鮮の間に38度線が引かれ、韓国と北朝鮮の両国は戦争状態にありますが、一般に「朝鮮戦争」と呼ばれるのは、戦闘が行われていた上述の期間を指すようです。
さて、その朝鮮戦争ですが、戦闘期間を通じて、韓国では軍人約42万、民間人106万が命を失いました。
そして約1千万人が一家離散の悲劇に遭ったのです。
大東亜戦争終結後、日本が軍事徴用した朝鮮人たちを国費をもって彼の国に帰しました。
どうしても日本に残りたいと申し出て日本に残留した朝鮮人は、わずか245人です。
そのわずか245人が、戦後67年経った今、日本国内に約100万人にも増殖したのは、要するにこの朝鮮戦争が最初のきっかけです。
ひらたく言ったら、朝鮮半島で殺されそうになった朝鮮人たちが、ボートピープルとなって大挙して日本に逃げて来たのです。
昭和25年から昭和28年にかけての日本といえば、まだまだ貧しい国でした。
ほとんどの日本人は、まさに食うや食わずの苦しい生活を余儀なくされていました。
それでも、多くの日本人は身ひとつで逃げて来た朝鮮人たちをかくまい、衣食を与え、ときには経済的援助まで行ってきました。
そのおかげで、多くの朝鮮人たちが、日本にそのまま定着して、現在に至っています。
また韓国については、戦後たびたびウォンが危機状態となり、巷に失業者があふれ、結果としてその度に職を求めて(このとき女性は売春による荒稼ぎ目的で)日本に渡ってきた者も多いのです。
それでも昭和の間は、日本に永住していても、たとえば運転免許証などでは、免許証の一番上の「国籍/本籍」欄に、「国籍:大韓民国」とか表示され、免許証をみれば渡来人かどうかがわかりました。
ですからサラ金が世に出た当時は、貸付審査に際して、運転免許証を見て、韓国人だとわかれば、融資をお断りしていたのです。
それがなぜか、お国からの通達で、外国人だからと融資を断ってはイケナイとされるようになり、挙げ句の果てが、どこでどう決まったのか、今では運転免許証の「国籍/本籍」欄は、印刷上は空白とされ、警察の保有する特殊な機械を使わないと、一般人には外国人であるかどうかの識別ができなくされているのです。
実に不思議な話です。
さて、そうした戦後の朝鮮半島と日本が、どのような流れになってきたのか、すこし考えてみたいと思います。
そこには、怒りと感動の物語があります。
今、朝鮮半島は、北と南に分断されていますが、実は大東亜戦争が終結した直後、昭和20(1945)年9月6日に、統一朝鮮(北と南の両方がひとつの国になった朝鮮)が樹立されていたのです。
国名を、「朝鮮人民共和国」といいます。
戦前の朝鮮は、日本に併合されていましたから、南北の分断なんてなかったのです。
そこには朝鮮総督府があり、その総督府の機能が、そのまま朝鮮建国に結びつくはずだったのです。
だから朝鮮総督府には、呂運亨(ヨ・ウニョン)という人物がいて、朝鮮建国準備委員会を設立し、半島統一国家の建設を企図し、実際に「朝鮮人民共和国」として建国宣言まで行っていたのです。
ところがそのまま統一朝鮮が樹立されればよかったのですが、樹立宣言の翌日に敵前上陸同様に上陸して来た米軍は、半島に軍政をひいてしまいます。
そして朝鮮人の呂運亨率いる「朝鮮人民共和国」も「朝鮮建国準備委員会」も否認してしまったのです。
実はこの否認にはこれにはもうひとつの理由があります。
それが、後に韓国の初代大統領となる李承晩(イ・スンマン)です。
李承晩は明治8(1875)年生まれの朝鮮の独立運動家でした。
生家は、李氏朝鮮の初代王である太宗の長男で世宗の兄である譲寧大君の末裔とされていますから、要するに両班(りゃんばん、朝鮮の貴族)の家にあたります。
李氏朝鮮の時代というのは、人口でいったらほんの一握りしかいない朝鮮貴族の両班が、民衆に対して絶対的権勢を振るった時代ですから、彼らにしてみれば日本によって民衆に力を与えられるのは憎くて仕方がないのです。
日韓併合によって朝鮮半島が日本統治になると、李承晩は上海に渡り、そこで「大韓民国臨時政府」を樹立して、勝手に初代大統領を名乗っています。
これが大正8(1919)年のことです。
さすがにことのときは、日本も怒り、憲兵隊が李承晩を逮捕しました。
日本はアジアの独立、アジアの欧米による植民地支配からの脱却、そして人種平等を目指して戦っていたのです。
人種の平等というのは、人間の平等の精神でもあります。
どんな人でも、努力をすれば、相応の地位も名誉も与えられる。
単に権威の上にあぐらをかくような存在は、否定される精神でもあります。
これに対し、李承晩が抱いていた思想は、あくまで朝鮮半島は両班のものであるという思想です。
朝鮮半島の人も富も、すべては朝鮮人の両班のものでなければならない。
これは、日本の大東亜共栄の思想とは全く異なるものです。
日本の憲兵は、李承晩に対し、理を諭し、情をもって接するのだけれど、李承晩は火病を起こして翻意しない。
あまりのことに腹を立てた憲兵が、その李承晩に平手打ちをしたのだそうです。
このたった一回の平手打ちが、実はその後の韓国と日本の関係を決定づけたのです。
李承晩は、実は太宗の長男の系譜とはいっても、16代目にすぎません。
家は簡単に言ったら、没落貴族でしかない。
けれど彼にとっての誇りというのは、自分が両班である、というその一点に集約されている。
だから、人から平手打ちなんてもらったことのない李承晩は、生涯にわたって、その平手打ちを逆恨みし続けたのです。
当時の日本人の間では、平手打ちなんてのはあたりまえの習慣です。
平手で相手のホッペタを、ピシャリと叩くのだけれど、平手打ちというのは、打たれた側は痛みはあっても怪我はしません。
そして打った側も、手のひらが痛い。
打つ側の手の平の痛みは、打つ人の心の痛みでもあります。
その心を素直に感じることで、打たれた側も反省をする。
日本ではあたりまえの、そうした習慣が、朝鮮人の李承晩にはまったく通じなかったどころか、彼は生涯それを個人的怨恨として逆恨みし続けたのです。
李承晩は、憲兵から釈放されたあと、渡米し、そこで米国大統領ならびにパリ講和会議の米国代表団に宛てて、「朝鮮半島を国際連盟の委任統治領にしてもらいたい」という請願書を提出しています。
もし、朝鮮半島が現実に「委任統治領」になっていたら、おそらく今の韓国の発展はないことは、火を見るよりもあきらかなことだと思います。