資料)1/3☆世界史を変えた日露戦争の勝利
日露戦争は、1904年~1905年にかけて、新興国の大日本帝国と、老大国ロシア帝国が、中国東北部(満州)を主戦場として戦った戦争。
この激戦は、アメリカが仲介する形で終結するが、その結果は、日本の勝利でおわる。
「判定勝ち」に近い戦争終結とはいえ、日本はその戦争目的を完全に達成したかとで、完勝と言っても差し支えないと思う。
この戦争の結果、既に衰勢が明らかであったロシア帝国は没落への一途を辿り、1917年のロシア革命で壊滅、崩壊する。
☆【日露戦争における日本海海戦】
日本が勝利した日露戦争が世界史に与えた影響とは、アジアへの進出を阻止されたロシアが西に向かい、それが第一次世界大戦の誘因になったとか、世界初の共産主義国家誕生の導火線になったとか、世界史に大きな影響を与えたことは良く知られている。
しかし、最も大きな影響を与えたのは有色人種の非キリスト教徒が、白色人種のキリスト教徒に勝利したことから生じた人種的宗教的世界システムの変革であろう。
この日露戦争の勝敗を決したのが日本海海戦の勝利であった。
☆【日露戦争がアジア諸民族に与えた衝撃―アジア民族の覚醒】
大陸の中華人民共和国からも台湾の中華民国からも「建国の父」とされている孫文は、「日本の勝利が有色人種や、大国の圧政に苦しむ諸民族に民族独立の覚醒を与え、ナショナリズムを急速に高めた」と書いているが、中国では日露戦争の日本の勝利を契機としてナショナリズムが高まり、米国の人種差別に対する抗議デモや米国製品不買運動が初めて起きた。また、日本に学ぼうと留学熱が高まり、1906年には留学生は1万2000名に達した。そして、孫文は日本への留学を通じて啓蒙された青年たちを率いて、辛亥革命を実現し中国に最初の近代的国家を誕生させたのである。
ベトナムのファン・ボイ・チャウは、「日露大戦の報 長夜の夢を破る」「日露戦役は実に私達の頭脳に1世界を開かしめた」と回想しているが、ファン・ボイ・チャウは福沢諭吉の『学問のすすめ』に大きな影響を受け、「米国の虎やヨーロッパの鯨の横暴に対して、黄人種として初めて歯止めをかけた。なぜ日本がそれをなし得たか、答えは東京にある。中国、朝鮮、インドからの留学生で東京は溢れている、日本に学べ」と、若者を日本に留学させる「東遊運動」を初め、260名余の若者を日本に送った。また、ハノイには慶応義塾に倣って「トンキン義塾」も創設された。
フィリピンでは日本海海戦の勝利のニュースが伝わると、マニラ領事館には多数の祝電が寄せられたが、のちに国会議員となったエンリケ・コーポラウは「アジアの時代が来た。アジアがヨーロッパに対して立ち上がる時が来た」と歓喜したと回顧している。
一方、インドのジャワーハルラール・ネール首相は「アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国に大きな影響を与えた」。「ヨーロッパの一大強国が敗れた」。だとすれば、アジアはヨーロッパを打ち破ることができるはずだ。「ナショナリズムは急速に東方諸国にひろがり、『アジア人のアジア』の叫びが起こった」と書いている。インドの新聞「ヒタバディ」紙は「日露戦争の日本勝利が西欧に対する幻想を解消した。インドのようなおとなしい羊でも虎に変身できる。我々は羊が虎にはなれないという過ちに気が付いた。日本の勝利がインド人を覚醒し、英国と対等という前向きの思想に目覚めさせた」と報じた。
☆【日露戦争がアラブ・回教圏に与えた衝撃―アラブの夜明け】
イラン・イラク戦争の人質事件の例を挙げるまでもなく、アラブ諸国には極めて強い親日感情があるが、それは日露戦争の勝利にあった。日露戦争が始まるとアラブ社会には数多くの日本や日露戦争に関する本が出版された。エジプトでは1903年6月に、ムスタファー・カーミルの『昇る太陽』が出版されたが、カーミルは「墓場から甦って大砲と爆弾の音を響かせ、陸に海に軍隊を動かし、政治上の要求を掲げ、自らも世界も不敗と信じていた国を打ち破り、ほとんど信じ難いまでの勝利を収め、生きとしいけるものに衝撃を与えることとなったこの民族とは一体何者なのか。かの偉大な人物(天皇)とは何者なのか。いかにして全世界を照らし出す昇る太陽を、目のあたりにすることになったのか。今やだれもが驚きと讃嘆の念をもって、この民族についての問いかけを口にしているので説明する」ために、また、エジプト人を目覚めさせ、若い世代を導くために、この本を書いたと述べている。
また、エジプトの国民的詩人ハーフィズ・イブラーヒームは「日本の乙女」という詩を書いたが、この詩はエジプトだけでなく、レバノンの教科書にも掲載され、現在でも多くのアラブ人に愛唱されているという。そして、インター・ネットの日本アラブ通信に「新アラブ千一夜物(第1夜)」として、「われは日本の乙女、銃もて戦う能わずも、身を挺して傷病兵に尽くすはわが務め、わが民こぞりて力を合わせ、世界の雄国たらんと力尽くすなり」との詩が掲載されている。
日本賛美はエジプトにとどまらず、他のアラブ諸国にも波及し、トルコの女流作家ハリデ・エディブ・アドゥヴァルは、1906年に生まれた次男を、ハサン・ビクメトツラー・トーゴー(東郷)と名付けた。
トルコの観戦武官ペルテヴ・バシャは、戦記『日露戦争』と、講演録『日露戦争の物質的・精神的教訓と日本勝利の原因』を刊行し、「日本軍の勇敢さや国民の一致団結を讃え、国家の命運は国民の自覚と愛国心で決するものであり、トルコの未来も日本を見習い近代化を進めるならば、決して悲観すべきものではない。国家の命運は国民にあり」と訴えた。そして、トルコでは日本の勝利がトルコの祖国解放運動、近代化を推進するケルマ・アタチュルクのトルコ革命に連なっていった。
イランではホセイン・アリー・タージェル・シーラーズイーが、『ミカド・ナーメ(天皇の書)』を書き、日本が世界に新しい光を投げかけ、長い無知の暗闇を駆逐したと日本を賛美しているが、それは次の1節からも読み取れるであろう。
東方からまた何という太陽が昇ってくるのだろう。
眠っていた人間は誰もがその場から跳ね起きる。
文明の夜明けが日本から拡がったとき、この昇る太陽で全世界が明るく照らし出された。
イラクでは詩人のアルーフ・アツ=ルサーフイーが「対馬沖海戦」を、レバノンでは詩人アミール・ナースィル・アッ=ディーンが、「日本人とその恋人」を発表した。
また、イラン人の啓蒙思想家ターレボフは『人生の諸問題』で、日本の勝利とロシアの敗北の理由を、日本の立憲君主制の文明開化と自由、ロシアの敗北を専制君主制による未開性と抑圧と捉え、「神助を得た日本の皇帝はアジアの王たちによき手本を提供した。
もし王たちが狩猟や黄金をちりばめた王宮での安眠の代わりに、その時間を少しでも王国内の諸問題の解決と、国民の福祉とを考えるために費やすならば、彼らはきっと天皇の方策を模倣することになるだろう」と述べ、さらに末巻に明治憲法を掲載した。
そして、このペルシャ語訳の明治憲法が、モロッコ憲法の創案者が「日本を模倣すれば、日本が短時間で達成したものを成就することが可能である」と、憲法草案の説明文に書かれていることから東京大学の杉田英明教授は明治憲法がモロッコ憲法に影響を与えた可能性があるとしている。
☆【日本とイスラム圏との連携―天皇をカリフに―ツランの誓い】
日露戦争当時、トルコ皇帝アブドル・ハミッド二世がイスラム教徒の団結を国策としたこともあり、パン・イスラム主義がユーラシア大陸に広がっていた。このような時に日本がキリスト教国に勝利したことから、パン・イスラム主義は勢いを増し、イスラム圏ではイスラム教を日本に広げ、天皇をカリフ(盟主)とすることによって、西欧勢力に対抗しようとの動きが生まれた。
トルコでは1906年に、『イジュティハート』誌にアブドゥッラー・ジェウデトが、「ロシアと日本」との諭文を書き、日本がもしイスラム国家となれば、明治天皇をカリフとするのが適当である。そうすればイスラム諸国の団結はますます強固になるであろうと主張した。
イランからはタバタバーイーなど立憲派学者が、天皇に電報を打ちイスラム社会への支援と保護を求めた。
また、タタール系のロシア人アブデュルレシット・イブラヒムはトルコ皇帝の内命を受けて訪日し、国民新聞社に徳富蘇峰を訪れ、日本へのイスラム教の布教だけでなく、欧米列強のアジア進出に対して協力し対抗しようと次のように熱く語った。
「我々の目的は日本にイスラムを広めるとともに、東洋の覚醒と統一をはかり、これによって東洋を外国の侵略から防衛するために尽力することです。東洋の生命を残酷な西洋の侵略者の攻撃から救う手立てを考え力を尽くすことは、人間のもっとも神聖な使命と言わねばなりません。イスラム教徒を代表して日本の助力を請い願う次第であります」
また、1921年3月にはヘヂアスの王族アルカデリーが、イスラム民族連盟の極東駐在代表として来日し、アラビア、インド、エジプト、トルコのイスラム教徒がメッカで開かれたイスラム教徒代表者会議で、日本を盟主と仰ぐことが決議されたと伝えた。
このようなイスラムの働きかけを受け、日本でもイスラム圏への関心が高まり、1909年にはアジア主義者の頭山満、内田良平、大原武慶らと、アブデュルレシト・イブラヒム、アフマド・ファドリー、ハムンド・バラカトゥッラーなどが、イスラム教の弘布とアジアの共同防衛を目的とした亜細亜義会を結成した。
さらに、1921年10月には中央アジアの回教徒と連携するために、「大亜細亜協会」と「ツラン会亜細亜本部」を設立した。日本のユーラシアの回教徒との連携は、1930年代にはいるとさらに加速し、パミール高原に近い新疆のカシュガルを中心に、イスラム教徒の独立国を作ろうとホフホトに西北回教連合会本部を、包頭、大同、張家口に支部を設立した。
しかし、パン・イスラム主義者たちの日本イスラム化計画は、1938年に代々木にモスクを建立し、その3ヶ月後に前総理の林鉄十郎大将を会長に大日本回教協会を発足させたにとどまった。