小野田寛郎氏が生前「慰安所と慰安婦」の実態を語った記録【2】
◆漢口の 「慰安所」 を見学
商社員として十七歳の春、中国揚子江中流の漢口(現武漢)に渡った私は、日本軍が占領してまだ五カ月しか経っていない、言わば硝煙のにおいが残っている様な街に住むことになった。
当時、漢口の街は難民区・中華区・日華区・フランス租界・日本租界・旧ドイツ租界・旧ロシア租界・旧英国租界に分かれていて地区ごとにそれぞれ事情に合った警備体制が敷かれていた。
日華区とは日本人と中国人とが混じって住んでいる地区で、そこに住む中国人は中華区に住む者と同様 「良民証」 を携帯しており、そうでない者は警備上難民区に住まされていた。
難民区は日本兵も出入りを禁止されていて、私たち在留邦人は届け出て許可を得なければ出入り出来なかった。それだけ危険な場所だった。
私は、仕事が貿易商だから、難民区以外はよく歩いた。
ある日、汚れた軍服を着た兵士に 「慰安所はどこか知りませんか」 と路上で尋ねられ、一瞬思い当たらず戸惑った。
しかし看板に黒々と 「漢口特殊慰安所」 と書いて壁に掲げていて、その前に歩哨と 「憲兵」 の腕章をつけた兵隊が立っている場所を思い出したのでその通り教えてあげた。
映画館と同様に日華区にあった。
汚れた軍服から推測して、作戦から帰ってきた兵士に間違いない。
街を警備している兵士は、そんな汚れた軍服で外出してないからだ。
私は 「特殊慰安所」 か、なるほど作戦から帰った兵士には慰安が必要だろう、小遣い銭もないだろうから無料で餅・饅頭・うどん他がサービスされるのだろうと早合点していた。
ところが、私の知人が営む商社は日用品雑貨の他に畳の輸入もしていて、それを 「慰安所」 にコンドームなどと一緒に納入していたので 「慰安所」 の出入りが自由であった。
彼に誘われて一般在留邦人が入れない場所だから、これ幸いと見学に行った。
私たちは、憲兵に集金の用件を話してまず仕事を済ませた。
日が暮れていたので 「お茶っぴき」 (客の無い遊女)が大勢出てきて、経営者と私たちの雑談に入ろうとしてきたが追い払われた。
そこには内地人も鮮人も中国人もいた(現在、鮮人は差別用語とみなされ、使われない。しかし朝鮮半島が日本統治だった当時は 「日本人、朝鮮人」 などと言おうものなら彼らに猛烈に反駁された。彼らも日本人なのだからと言う理由である)。
群がってきた彼女たちは商売熱心に私たちに媚びてきた。
憲兵は特別な事情の時以外は、部屋の中まで調べに来ないからである。
料金は女性の出身地によって上中下がある。
また、利用時間も兵士は外出の門限が日没までだから日中に限られるが、下士官は門限が長く、将校になれば終夜利用出来る。
料金も階級の上の方が割高で、女性たちは当然、同じ時間で多く稼げることになる。
半島出身者に 「コチョ(伍長─下士官)かと思ったらヘイチョウ(兵長─兵士)か」、 「精神決めてトットと上がれネタン(値段)は寝間でペンキョウ(勉強)する」 とか、笑うどころではない涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。
内地人のある娼妓は 「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」 といい、中には 「一日に二十七人の客の相手をした」 と豪語するつわものもいた。
◆どこにもいなかった「性的奴隷」
ここで親しくなった経営者の話を紹介しよう。 「体力的に大差がない筈なのに、内地人は兵士たちと言葉が通じるために情が通うのか、本気でサービスして商売を忘れ健康を害してしまう。 そのために送り返さねぱならず、経営者にとって利益が少ない。 兵隊さんには内地人ばかりで営業するのが本当だが」 と本音を漏らしていた。
私の育った街には花柳界があったので、芸妓と酌婦をよく眼にしたが、当時は玄人女と呼ばれた彼女たちの外出姿でも一般の女性と見分けることが出来た。
その目で見れば漢口の街でも同様だったが、特に朝鮮人の女たちは特色があった。
というのは彼女たちは数人で外出してくるのだが、民族衣装ではなく、着慣れないツーピースの洋装のせいで着こなしが悪く、また歩き方にも特徴があって一目で見分けられた。
彼女たちは実に明るく楽しそうだった。
その姿からは今どきおおげさに騒がれている 「性的奴隷」 に該当する様な影はどこにも見いだせなかった。
確かに、昔からの言葉に、 「高利貸しと女郎屋の亭主は畳の上で往生出来ぬ」 というのがあった。
明治時代になって人身売買が禁止され 「前借」 と形は変わったが、娘にとっては 「売り飛ばされた」 ことに変わりはなかった。
先述の 「足を洗う」 とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた。
騙された女性は本当に気の毒だが、中にはこんな話もある。
「『従軍看護婦募集』と騙されて慰安婦にされた。 私は高等女学校出身なのに」 と兵士や下士官を涙で騙して規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。
またそれを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。
日本統治で日本語が通じた故の笑えない喜劇でもある。
ところで、その 「慰安所」 にどれだけの金が流れたのだろうか。
これが 「慰安婦」 が 「商行為」 であった確かな事実である。
私の次兄が主計将校で、漢口にある軍司令部に直接関係ある野戦衣糧廠にいたので 「慰安所」 について次のような統計があると教えてくれた。
当時、漢口周辺には約三十三万人という兵力が駐屯していたが、ある理由で全軍の兵士の金銭出納帖を調べた。
三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が 「慰安所」 への支出だった。
貯金は給料の僅かな兵士たちにとって嬉しいことではなかったが、上司から躾として教えられている手前せざるを得なかったのが実情だった。
私も初年兵として一ケ年、江西省南昌にいたが、食べたいのを我慢して貯金した。
一人の兵士がそれぞれ三等分して使った訳ではないだろうが、人間の三大欲は食欲、睡眠欲と性欲と言われるだけに、貯金を睡眠に置き換えると全く物差しで測った様な数字である。
ちなみに当時の給料は兵は一カ月平均十三円程で、その三分の一を約四円として計算すると三十三万人で総額約百三十二万円になる。
「零戦」 など戦闘機一機の価格は三万円と言われたが、実に四十四機分にも相当する。
サラリーマンの初任給が四十円そこそこの頃だったのだから、経理部の驚くのも無理のない話である。
以上が、私が商社員として約三年半の間、外部から眺め、また聞き得た 「慰安所」 と 「慰安婦」 の実態である。
私が漢口を去った昭和十七年夏以降に、漢口兵站(作戦軍の後方にあって車両・軍需品の前送・補給・修理・後方連絡線の確保などに任ずる機関)の副官で 「慰安所」 等を監督した将校の著した『漢口兵站』と照合してみたが、地名・位置等について多少の相違点は見いだしたが、本題の 「慰安所」 について相違はなく、より内情が詳しく記されていた。
これでは誰がどう考えても 「商行為」 であるとしか言いようがないだろう。
「商行為」 ではない、軍による 「性的奴隷」 であるとそれでも強弁するとすれば、知らな過ぎるのか、愚かで騙されているのか、そうでなければ関西人が冗談めかして言う 「いくらか貰うてんの?」 なのかもしれないが、あまりにも馬鹿げた話である。
【3】に続く