9月1日は防災の日『震災を乗り越えて ─ 日本と台湾の絆』
1999年9月21日(午前1時47分)
台湾でマグニチュード7.6の大地震が発生
その巨大地震は阪神淡路大震災クラスで、死者2,400人以上、負傷者11,000人以上に達した、台湾住民にとって忘れられない日だ。
時の台湾総統は李登輝氏である。
氏は地震発生後、30日間のうち21日間を被災地で
自ら陣頭指揮をとり、情報収集と被害対応に尽くした。
地震発生後、様々な国から次々と支援の申し出があったが、発生した夜に、真っ先に到着したのは、日本の救助隊だった。
遺体が発見される度に、敬礼と黙祷を捧げ・・・
救助ができず申し訳なかったと家族に詫びた・・・
日本の救助隊が帰国する時、空港には台湾人により盛大な拍手に包まれていた。
そして当時、日本財団会長で見舞金をもって訪台していた曽野綾子さんに李登輝総統はこう答えた。
「日本に何かあったら、真っ先に駆けつけるのは台湾の救助隊である!」と。
2011年3月11日(午後2時46分)
マグニチュード9.0
東日本大震災発生
日本の震災の報は、台湾にも伝えられた。
李登輝氏は既に総統の座から降りていたが、「今回の震災は、われわれが恩返しする時!」と震災発生直後に交流協会台北事務所を通じ、救助隊の派遣を申し出た。
交流協会台北事務所は、正式な外交関係がない日本と台湾において、大使館の役割を果たす窓口である。
氏が派遣要請をした救助隊は民間のNGO組織、中華民国捜救総隊。
その隊員は全てボランティアで活動を行い、台湾大地震の時も、危険を顧みず生存者の救助活動を行った。
救助隊の動きは迅速で、対応は政府(馬英九)のそれよりも速かった。
しかしなぜか
同隊の被災地派遣について、日本は承諾しない。
震災の救助活動は時間との勝負だ、震災発生後72時間が被災者の生死を分ける迅速な対応が求められる時だ。
同隊はやむなく自力で被災地に向かった。
まず、チャイナエアラインに搭乗を要請。
しかし台湾外交部からの同意が得られず、拒まれた… 日本政府からの正式な承諾が得られなかった為であろう。
時間だけが過ぎていった。
困り果てた同隊はエバー航空に相談すると、35名のメンバーと装備を成田空港まで無償で運んでくれた。
しかし成田空港に到着できたのは、3月13日午後一時だった。
一刻を争う時であるものの、日本に到着したはいいがどの被災地に行っていいかわからない。
その中で、日本の外務省が台湾からの救助隊にとった行動は「台湾からの救助隊を迎え入れる準備ができていない!」だった。
台湾は中共シナの一部であるという、中共への配慮を示した結果である。
時の日本の総理大臣はご存知、民主党の菅直人・・;
よりによって
この最悪のタイミングで、最悪の人間が、最悪の指揮を執っていた。
結局、同隊には15日になるまで被災地への通行証の許可は下りなかった。
台湾政府も11日に派遣の用意を表明していたが、各国の救助隊が日本入りする中、中華民国捜救総隊と同様に待機を余儀なくされる…
救助隊一番乗りと言われる、韓国の救助隊5名と救助犬2匹は3月12日午後成田に到着していた…
しかし、日本政府が最初の中華民国捜救総隊の申し出を受け入れ、救助隊がチャイナエアラインに搭乗できていれば真っ先に救助に駆けつけてくれたのは台湾だったはずである。
李登輝氏は、当時の日本政府の対応についていまだに納得していない。
「日本に何かあったら、真っ先に駆けつけるのは台湾の救助隊である!」
「その約束を果たせなかったことは、生涯の痛恨事である!」そう語った。
そして
「日本の皆様の不安や焦り、悲しみなどを思い、私は刃物で切り裂かれるような心の痛みを感じている」
「自然の猛威を前に決して運命だとあきらめず、元気と自信、勇気を奮い起こしてほしい」
ともメッセージを寄せている。
日本を助けようと必死に尽くしてくれた人々が台湾にいる。
その事を忘れてはならない。
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■台湾からの義援金
200億円以上(世界一)
■台湾からの物資支援
発電機 688台
毛布 1,599箱
寝袋 2,587箱
スリーピングマット 236箱
衣類(防寒着等を含む)4,488箱
食品 16.5トン 及び 9,444箱
ストーブ 900台
マスク 404箱
カイロ 150箱
飲料 870箱
手袋 42箱
暖房器具 53台
マットレス 33箱
粉ミルク 895箱
マフラー 21箱
ナプキン 10箱
枕 16箱
キルト 408箱
ティッシュ 20箱
トイレットペーパー 30箱
懐中電灯 3箱
タオル 48箱
納体袋 24箱
※ほぼ台湾の民間からの支援である。
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