完全コピペ ■ 合衆国陸軍最強、最精鋭・第442連隊戦闘団の「大和魂」を忘れるな!
60代前半  石川県
2016/02/25 22:03
完全コピペ ■ 合衆国陸軍最強、最精鋭・第442連隊戦闘団の「大和魂」を忘れるな!
皮肉なことに米国が日本を恐れるのは、太平洋で日本軍と戦ったのは勿論だが、欧州で米軍として共にドイツ軍と戦った第442連隊戦闘団の日系2世の中に「大和魂」を目の当たりにしたからに違いない。


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【米最強442連隊の大和魂…激戦地に赴いた日系2世】

半数が生きて故郷に戻ることはなかった…欧州戦線の白人兵を驚愕させた日系2世部隊の伝説的な戦い。訪米の最後に安倍首相が対面した442連隊の元兵士達は、紛れもないサムライだった。

日系人が多く暮らす米ロサンゼルスのリトル・トーキョー。その一角に、「ゴー・フォー・ブローク・メモリアル」という一風変わった名前の記念碑がある。Go For Broke 当たって砕けろ…

米両院会議での歴史的な演説を終えた安倍首相は5月1日午後、ロサンゼルスに入った。地元日系人との会合に続き、昭恵夫人を伴って訪れたのが「ゴー・フォー・ブローク・メモリアル」だった。

記念碑の前には、高齢の日系人男性が日本国総理の到着を待っていた。彼らこそ米陸軍史上に輝く最強軍団442連隊の元兵士たちだ。多くが既に90歳を超えている。

安倍首相夫妻は、厳かに記念碑の前に歩み出ると、白百合や菊をあしらった花輪を捧げた。遠い異国の地での激戦から70年以上が経っていた。セレモニーに参列した元兵士の1人は、こう語った。

「日本の総理大臣がここに立ち寄ってくれるまで長い時間がかかった。それでも、過去に敵として戦ったという事実がありながら、安倍首相は私たちに会いに来てくれた。本当に良かった」


握りしめた右手に左手を添えて、安倍首相は労いの言葉をかけた。式典に参列した元兵士たちの満ち足りたような表情。そして安倍首相も、今回の訪米で一番の笑顔を見せていた。

「第二次世界大戦での日系人部隊の勇敢な戦いぶりは、今でも語り伝えられています」

安倍首相は翌日付の公式FBに、そう記した。422連隊を筆頭にした日系人部隊の戦いは、米国のみならず欧州各地でも、深く記憶に刻まされている。彼らは常に最前線の悲惨な戦場にいた。

大東亜戦争の開戦後、収容施設に押し込められた約12万人の在米移民。鉄条網の内から大勢の日系2世の若者が戦場へと向かい、そして多くが、2度と家族の待つ家に帰ることはなかった…


【鉄条網の外の地獄へ向かった】

ナポリからローマに続く街道の途上に、美しい修道院で知られるカッシーノの町がある。山頂に聳え立つ修道院は戦後、再建されたものだ。かつて、この地で激戦が繰り広げられた。

1944年初頭から始まったモンテ・カッシーノの戦い。連合国側が空爆で修道院を破壊しても、ドイツ軍の凄まじい抵抗が続いた。戦闘は5ヵ月に渡り、戦死者は5万人を上回った。

この熾烈な戦闘で名を馳せたのが、日系人で編成された第100歩兵大隊だった。丘を見渡す場所に建てられた碑には大隊の名が刻まれ、町の人々は、その兵士が日系人だったことを記憶に留めている。

イタリア中部の小さな町で、大勢の日系2世の若者が命を落とした。同時に、決して怯まず退かない日系兵士の勇敢な戦いぶりは、直ぐに米軍上層部の知るところになったという。

そして、第100歩兵大隊の武勲に奮い立ったのが、同じ日系人部隊の442連隊だ。戦前から兵役に就いていた者で編成された100大隊に対し、442連隊は、志願兵が殆どだった。

各地の収容施設から多くの若者が志願した。米国政府に国民としての権利を奪われながら、国の為に戦う。その余りにも複雑な心情を別の時代の他人が推し量ることは難しい。

米軍上層部も当初、日系人兵士の扱いに苦慮していた。日系人兵士は訓練課程で抜群の成績を残しながらも、全幅の信用を置くことが出来なかったのだ。

第100歩兵大隊が最初に派遣されたのも戦局の落ち着いた北アフリカ戦線だった。それが、モンテ・カッシーノの勇敢な戦いで評価が一変する。

そして1944年6月、兵力の半減した100大隊は422連隊戦闘団に組み込まれ、米陸軍史上最も多くの勲章を授賞した最強軍団が、ここに誕生。連隊はドイツ国境に近い最前線へと向かった。


【米陸軍史に残る伝説の作戦】

フランス北東部ロレーヌ地方のブリエラという街に「442通り」と命名された路地がある。占領していたドイツ軍を442連隊が駆逐したことを記念したものだ。

「フランス市民は、今も日系兵士たちに深く感謝し続けています」

6年前、この街で開かれた式典で、元442連隊の兵士たちは熱狂的な歓迎を受けた。当時を知る人も残っていた。彼らは、死を賭して街を奪還した連合軍兵士の多くが日系人だったことを忘れていない。

1944年10月、南仏マルセイユに上陸した442連隊は、ドイツ国境を目指して北進。その途上でブリエラを解放した。続いて、日系人部隊を伝説の軍団たらしめる運命の作戦に突入する。

ヴォージュの森と呼ばれる山岳地帯で、通称テキサス大隊が孤立していることが判った。周囲のドイツ軍は堅牢で、救出作戦は難航。そこで、大統領直々の命令が442連隊に下された。

これが後に「米陸軍10大作戦」の一つとしてウェストポイントで士官に叩き込まれる有名な作戦となる。冷たい雨が降る暗い森の中で、442連隊はドイツ軍精鋭部隊と死闘を繰り広げた。

4日間に及ぶ白兵戦の末、ついにテキサス大隊211人の救出に成功。しかし、442連隊の犠牲者は216人に上り、重傷者は600人を超えた。理不尽な作戦命令に対し、現地指揮官への批判も噴出した。

「我々は消耗品のように使い捨てにされると判っていました。でもそれを歓迎したんです。なぜなら、チャンスだと思ったからです」

そう平然と語るのは、今は亡きダニエル・イノウエ元上院議員だ。不当な作戦となじることも嘆くこともない。半世紀にわたり上院議員を務めた大物政治家も、442連隊の英雄の1人だった。


【勝ち取った精鋭部隊の称号】

イタリア中西部の港町ピエトラサンタ。ここに建つ東洋系の顔立ちの像に違和感を持つ者はいない。サダオ・ムネモリ。敵の手榴弾を体で覆って仲間を救ったことで日系人初の名誉勲章を授章した兵士だ。

テキサス大隊救出作戦で勇名を馳せた442連隊は、イタリア戦線に戻った。1945年4月のゴシック・ラインの攻防。厄介者扱いだった日系部隊は歴戦の末、最精鋭部隊として最前線に派遣されたのだった。

「日系部隊が来たからには、1週間で突破できる」

現地ではそんな期待の声まで上がったという。事実、膠着状態だったゴシック・ラインの攻防は、劇的な変化を遂げた。442連隊が難攻不落の砦の一つを僅か30分の奇襲で陥落させたこともあった。

このイタリア戦線の最後で、ダニエル・イノウエ少尉は、右腕を失った。医師になるという夢が断たれた瞬間。それはベルリン陥落を目前にした終戦間際の出来事だった。

戦死者は、実に9486人にのぼった。442連隊は米軍史上最も多くの勲章を受けた部隊として知られるが、犠牲者の数は余りにも多く、生きて帰郷した者の誰もが深く傷付いていた…

ヨーロッパ戦線の終結から1年が過ぎた1946年夏、ワシントンD.C.で442連隊の表彰式が行われた。大統領が直接迎えた唯一の部隊だった。整列する日系兵士の前でトルーマンは、こう語った。

「諸君は、敵だけではなく差別とも戦い、そして勝った」

敵性民族の烙印を捺された日系移民への差別と偏見は、戦後もすぐに無くならなかった。その中、日系人の弛まぬ努力に加え、442連隊が払った「血の犠牲」が、信頼を勝ち取って行ったことは間違いない。


2010年10月、ホワイトハウスには442連隊の元兵士を迎えるオバマ大統領の姿があった。そして、一般市民に与える勲章として最高位の黄金勲章を日系兵士2万人に授与した。

彼らの活躍は、差別や偏見打破の礎として語られることが多かった。だが、同じ年に封切られたドキュメンタリー映画『442日系部隊 アメリカ史上最強の陸軍』は、従来と異なる新たな視点をもたらした。


【日系2世に刻まれた大和魂】

大東亜戦争が始まる前だった。カリフォルニア州の日本語学校に通っていた少年は、東條首相から学校に届いた手紙の内容を知って驚く。手紙には、こう書かれていたという。

「これは君たち2世への手紙である。君たちはアメリカ人である。従って君たちの国に忠誠を誓わなければならない」

戦前、ハワイで講演した松岡洋右国連大使も同じ趣旨のスピーチをしていた。そこにあったのは、君主に殉じるという武士道の精神。日系兵士は決して日本国の裏切り者などではなかったのだ。

初めての戦闘に出る朝、ダニエル・イノウエ少尉は仲間の兵士に対して「昨夜寝る前に何を考えたか」聞いて回った。すると全員が同じように答えたという。

「家族が不名誉になるようなことはしたくない。恥にならないようにしたい」

Duty and Honor… 義務と名誉。彼ら日系2世の心意気は、同時代の皇軍兵士と少しも変わらないものだった。またヨーロッパの戦場では、深く考えさせられる戦術が実行に移された。

「1944年10月と変わりありません。そこでバンザイ攻撃が行われたのです」

442連隊の武勇を詳しく知る男性は、そう話す。仏北東部ヴォージュの森につづく町の外れに「バンザイ・ヒル」の異名を持つ丘があった。日系兵士は、そこでバンザイ攻撃を行ったのである。

それは我が軍の部隊が最後の最後に決行する玉砕戦術とは異なり、一種の囮戦術だった。一部の兵士が鬨の声をあげて突進し、敵の防御陣形を崩して邀撃するものだ。

体格で劣る日系歩兵部隊が強かった理由は、犠牲を覚悟で本隊を勝利に導く、他にない戦術にあったのではないか…正にサムライ・スピリット。敵味方ともに白人兵は震え上がったに違いない。

不思議に思う。日系2世の兵士は誰に教わったのでもなく、戦場において、自らの意思でバンザイ攻撃を決行した。恐らく、危機的な局面で彼らを突き動かしたのものこそが、大和魂だったのだ。

浅はかな戦後世代は、我が軍将兵を「軍国教育」「皇民化教育」の落とし子と貶す。しかし、日系兵士は誰に教え込まれることもなく、バンザイ攻撃を行い、死を恐れず敵に立ち向かった。

短期間の教育が民族集団の性質を劇的に変えることは稀だ。大和魂とは、明治以降のものでも、戦国時代に由来するものでもない。もっと古い民族の地層から湧き出てきた精神なのだ。

「安倍首相に会えて光栄でした。我々の過去の功績である記念碑を見てくれて嬉しかったです」

5月1日のセレモニーで、元442連隊のトクジ・ヨシハルさんは、相好を崩した。他のベテランたちも好々爺に見える。会えて光栄だったのは、私たち日本人の方だ。


誇りに思う。

そこに集った元兵士も、戦場に斃れた兵士も、米国の英雄であるだけではない。紛れもない真のサムライであり、そして古き佳き日本男児そのものだった。
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