かわいそう
誰かに対して『可哀想』と思う気持ちはあまりよいものではない。優しさでもない。
例えば、今日職場に上司が来てこってり絞られたとか、歩いていたらバナナの皮に乗ってしまって滑って転んだみたいな事象を聞いて、ついてなかったねみたいなニュアンスのものに、つい気軽に遣っちゃう言葉であるのはいい。
でも同情含みの可哀想というのは、正直なんだかな~。その人に対して残念だと判定している結構失礼なことだと思うのです。
あたしは、一昔前の言い回しでいうと『負け犬』でスタイル的に残念なアラフォー独女だ。ぼっちだけど不幸じゃないもん。不幸かどうかを自分以外の誰にも判断されたくない。
時にツラい思いをしている人が誰かにツラいと訴えるかもしれない。そういうときの『可哀想』という思いは一瞬の気休めに過ぎなくて何の足しにもならない。所詮他人が出来ることなんて本当に僅かで基本は自力でどうかするしかないからだ。大切なひとがツラい思いをしているのになにもしてあげられないのはツラい、自分が無力なように思えるから。でもその事実に目を背けてはいけない。
生まれたての雛鳥が自分で殻を破らなくて出てこなくてはならないのを親鳥は手伝わない。ただ黙って信じて見守る。そんな姿勢を持てる人でありたい。それができる人は信じることができるということ、決して無力ではない。
本当に可哀想な人など殆どいないとあたしは思っている
コメント
2018/05/26 18:54
3. >>2 爺さん
なので全くいないとは言ってません。殆どと表現してます
返コメ
2018/05/26 13:44
2. 本当に可哀想な人は居ないけど、本当に可哀想な奴も稀に居る。
返コメ
2015/03/06 17:29
1. 確かに見守ってるだけの半年間の方が精神的に楽だったかも。詳しいことは聞かず知らされず 幸せにやっててくれると見守ってた時の方が穏やかでした。
『気づき』をありがとうございます。
これからはそのスタンスで行こうと決めた2015春。
返コメ