俺は孫
子ども達は四人
夜の11時
近くに
先生の話を聞ける人が居ないので
俺が聴くことに
九十五歳での
手術のリスクを説明されてから
手術を行いますか
躊躇なく手術のお願いをしました
夜中の二時頃から朝の五時まで
手術は無事終わり一安心
子ども達も集まり
俺は解放
一寝してから
ばーちゃんの事
子ども達の事考えた
はたして手術して良かったのか
呆けて子ども達の事も判らない
だだ生きているばーちゃん
そんなばーちゃんを見ている子ども達
痛みだけを抑えて逝くのを見守るという選択肢も有った
いろんな意味で
自分の逝き方を考えた
延命、蘇生はいらないと相方には話してある
自分の望むような逝き方なんて出来ないのだろう
迷惑かけないで逝くなど出来ないのだろう
でも
自分以外の逝き方を左右してしまった事実は残り
これからのばーちゃんの生き方を
目を逸らさないで視ていかなければいけない自分は
一つ大人になったのか
思っている通りに行かない事の多い人生
せめて自分が
その時ベストな選択をしたと
思って
チョイス出来るような生き方はしたいものです
あおいな
進まなきゃいけないし
立ち止まってもいつかは進しかないし
流されることも有れば
乗せられる事もある
引っ張られたり
導かれたり
さらわれたり
助けられたり
知恵をつけぼちぼちゆっくりゆったりと行けばいい
いろんな意味で問題に成っている
いじめ自殺は許されない
長くなるな
きれいごとじゃなく
逝くまで生きろ。
コメント
2012/07/22 2:48
2. >まいさん
コメントありがとう
本当に難しい
いきる意味を考えてしまうとね
返コメ
2012/07/22 1:12
1. こんばんは
人生の選択というのは何にしても難しいですね。
それが自分のことではなく人の人生を左右するなら尚更です。
でも、その時に一番最善の選択をしたと信じて前向きに考えたほうがいいと私は思います。
そういう私は迷ってばかりですが
返コメ