お父ちゃんも、人を撃ったことあるん?
70代以上  大阪府
2019/08/12 6:27
お父ちゃんも、人を撃ったことあるん?
 
ワクワクで毎年恒例として、お盆の時季にアップしている日記があります。


毎年読み返して、書き加えたり削ったり、表現を変えたり・・・
そうやって少しづつ手を加えて、この日記を育てています。

だから同じ日記なんだけど、毎年どこか少し違っている。



いつも楽しみにして読んでくださっている方もたくさんおられ、ありがたいことです。

この日記が、平和について考えるきっかけとなれば、嬉しく思います。





☆ ★ ☆ ★

私が子供の頃は、毎年8月15日にテレビでは
「終戦特別番組」
を朝から夜までずっと、どの局も放送していた記憶がある。
(今の時代は、いつもと変わらないバラエティーなどの放送だが・・・)


その日が特別な日であることは、幼い私の頭にも刻まれていた。



私が小学校3年生だった。

扇風機のカタカタと回る音と、外から遠慮なく入ってくる蝉の鳴き声。
暑い夏だった。

終戦記念日、父と二人でカルピスを飲みながら、テレビの終戦特番を見ていた。


テレビの画面には戦時中の映像が流れている。
空爆や、行軍する兵士や銃撃の様子が、ブラウン管の中で映し出されていた。

それは遠いどこかの世界のことのように、幼い私は感じていた。



私は何も知らず何も考えず、無邪気に父に尋ねた。
「お父ちゃんも、人を撃ったことあるん?」

今思えば、単なる好奇心だったのだろう。



父は私の問いに、否定も肯定もせず、ただ悲しげな顔を見せた。
初めて見る、父のとても寂しくて苦しそうな顔だった。





☆ ★ ☆ ★

父は40半ばで結婚したから、私とはずいぶん年が離れていた。
同級生の父親より、一回りも二回りも年上で、子供の頃はそんな年寄りな親が恥ずかしくて嫌だった。
友達の若いお父さんが羨ましくて仕方がなかった。



父は物静かな人だった。
生き方が不器用な人でもあった。



父は若かりし頃、当時の多くの若者と同じように徴兵され、戦地(南方)へ赴き、外地で終戦を迎えた。

その頃の苦労を、父はほとんど語りたがらなかった。



タンスの小引き出しには、父の勲章が仕舞われていた。
それは、父と戦争を結びつける、たった一つの形だった。


その大切な勲章を私が勝手に胸につけ、友達と戦争ごっこをしたことがある。

普段おだやかな父は、私を叱った。
父の顔には、怒りではなく、涙がにじんでいた。

その涙の意味を、私は何も分からなかった。





☆ ★ ☆ ★

父や、当時の男たちは、人を殺めたいために銃を手にしたのではない。
一銭五厘の赤紙と呼ばれる召集令状によって召集され、命を賭けて祖国や家族のために戦ったのだ。
戦わされたと言ってもいいだろう。


政治や歴史では取り残されてしまいがちな、個人の物語がそこにはある。
国や社会に翻弄され、抗えない運命が。


戦争を知らず今の平和を享受している我々に、当時の事をとやかく言う資格のある者は誰もいない。
私も、もちろん戦争を知らない者の一人だ。



私は、戦争なんて断固反対する。
だから軽々しく交戦を支持する者を、軽蔑する。
それがどのような国家体制であれ、人であれ。


戦争と言うものは、家族や友人や恋人や、あらゆる関係を引き裂いてしまう。
悲しいものなのだ。


そしてまた、どんな思想や信条であれ、戦争で苦労された人たちを冒涜するような言動や行為は、決して許されない。
それを忘れてはならないと思う。





☆ ★ ☆ ★

「お父ちゃんも、人を撃ったことあるん?」


そう聞いたあの日に帰れるなら、愚かだった私は父に土下座して詫びたい。
自分で自分をぶん殴りたい。

子供だから無知だからと言って、何を口にしても許されるわけではない。
無邪気さは、時には残酷さを生む。



現代の平和は、尊い数多くの方の犠牲の上に成り立っていることを、絶対に忘れてはならない。
戦争を体験した方々、戦火で命を失った人たちはもちろん、戦地へ赴き銃を手に命をかけ散った人も、命からがら帰国した人も、同じくまた犠牲者である。



父が病気で他界してから十何年かが過ぎた。

貧乏な中、身を粉にして家族を養ってくれた父。
何の親孝行もできずじまいだった。


父の子としてこの世に生を受けた私は、今何より父を誇りに思う。


「本当にありがとうございます」
今年もまた、その一言を父に捧げたい。



戦後74年目の夏。
今年もまた暑い夏。
幼かったあの日の夏も、暑かった。


夏は途切れることなく、ずっと続いている。



静かに平和を祈念しながら、この日記を記す。
コメント不可

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