また会えるその日まで、この日記を書き続けたい
毎年12月にアップする日記があります。
思い出をたぐり寄せるように、少しずつ書き足したり書き直したりしながら育てている大切な日記。
2010年から、もう12年間にわたっての、ワクワクでの年中行事みたいなものです。
今年もお目にとめていただき、ありがとうございます。
★ ☆ ★ ☆
【昆布茶の思い出】
食べ物に好き嫌いのない事が、僕の自慢だ。
ところがただ一つ苦手なものがあった。
それが昆布茶だ。
昆布自体は嫌いではない。
でも粉にしてお茶で飲むと、ツンとくる酸味が苦手だった。
それとはぎゃくに、僕の父と母は昆布茶が好きで、たまに二人差し向かいでお茶をすすっていたものだ。
昔ながらの夫婦で、普段はいっしょに何かをするということもない二人だった。
でも、昆布茶を飲んでいる時は、とても和やかな雰囲気だった。
その光景を真っ先に思い出す。
「おまえも飲まないか」
父にそう声をかけられると、僕はいつも何も答えず逃げだした。
昆布茶以上に、無骨で堅物な父が、子供の頃から苦手だった。
大正生まれの父は、僕とは40数年も歳が離れていた。
「年取った親」がいやで、当時は、友達の「若いお父さん」がうらやましくてしかたなかった。
今考えたら、父との距離感みたいなものがうまくとれなかった気がする。
★ ☆ ★ ☆
母が旅立ち、それを追うように父も旅立った。
それからもうかなりの年月がたつ。
「あの頃、親子一緒に昆布茶を飲めばよかったなぁ」
との心残りが、今も澱のようどこかにある。
人は誰かを失ったとき思い返されるのは、ともすれば楽しかったイベントよりも、一見ささやかに思えることへの後ろめたさだったりする。
そしてそれは、激しい後悔というよりも疼きに近いものだ。
それが僕にとっての昆布茶だ。
苦労をかけた母。
疎遠になり死に目にも会えなかった父。
申し訳のない気持ちが今も消えない。
いつの頃からか年に一度だけ、僕は昆布茶を飲むようになっていた。
湯飲み3杯に昆布茶をいれる。
2杯はおやじとおふくろのため、残りの1杯は僕が飲む。
供養とかの意味合いでもないから、祈りを捧げたりするわけではない。
ただ、親子三人でお茶を飲み、還らぬ日を懐かしみたいだけ。
「親子三人のお茶会」
★ ☆ ★ ☆
苦手なはずの昆布茶が、なぜかこの時だけは甘くするりと喉を通っていく。
不思議な事に、懐かしい味わいが全身に伝わっていく。
飲み慣れてないのに「懐かしい」という表現は、おかしな話だけど・・・
その時父と母の気配を、まじまじと感じる。
間違いなく二人が、僕の前に帰ってきている。
もちろん目には見えないし、声も聞こえないけど、懐かしい父と母のぬくもりを近くに感じる。
僕から、何かを語りかけたりはしない。
もちろん二人からの声も聞こえない。
二人の姿を思い、ゆっくり時間をかけ、昆布茶をすするだけ。
おやじとおふくろのお茶をすする音も聞こえる・・・気がする。
★ ☆ ★ ☆
「人が亡くなるとは、どこか遠くへ去っていくことではない。物理的な存在ではなくなったとしても、その人の存在は失われたりはしない」
僕はそう信じている。
「死とは終わりを意味するものではなく、その人の思い出を永遠にすることだ」
そう考えてもいる。
そして何十年かして、僕も向こうの世界へ行ったときに、また再会できる。
きっと。
★ ☆ ★ ☆
親子三人のお茶会。
静謐な時間。
穏やかなひととき。
静かに、ゆっくりと流れていく。
過去と現在との境目が溶けて、時間の感覚が消え、いつしか僕は子供の頃にかえっている。
手にした湯のみのぬくもりは、父と母のあたたかさのようだ。
僕がお茶を飲み干す頃には、残りの2杯もすっかり冷めきっている。
それと共に、父と母の気配もすうっと消えていく。
「お父ちゃんお母ちゃん、いつも見守ってくれてありがとう」
ささやかな幸せの日々を感謝しながら、今年も親子三人のお茶会は幕を閉じた。
(この日記はコメント欄を閉じさせていただいています)