父は銃を手にした【暑い、あの夏の追憶】
毎年この時期、この日記をアップしています
戦争と平和について考えたくて
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(この日記はいつもコメント欄を閉じさせていただいています、ご了承ください)
☆ ★ ☆ ★
私が子供の頃は、毎年8月15日にテレビでは
「終戦特別番組」
を朝から夜までずっと、どの局も放送していた記憶がある。
(今の時代は、いつもと変わらないバラエティーなどの放送だが・・・)
その日が特別な日であることは、戦争を知らない幼い私の頭にも刻まれていた。
私が小学校3年生だった。
扇風機のカタカタと回る音と、外から遠慮なく入ってくる蝉の鳴き声。
暑い夏だった。
終戦記念日、父と二人でカルピスを飲みながら、テレビの終戦特番を見ていた。
テレビの画面には戦時中の映像が流れている。
空爆や、行軍する兵士や銃撃の様子が、ブラウン管の中で映し出されていた。
それは遠いどこかの世界のことのように、幼い私は感じていた。
戦争映画でもみている感覚だった。
ふと私は、何も知らず何も考えず、無邪気に父に尋ねた。
「お父ちゃんも、銃で人を撃ったことあるん?」
今思えば、子供特有の単なる好奇心だったのだろう。
父は私の問いに、否定も肯定もせず、ただ悲しげな顔を見せた。
初めて見る、父のとても寂しくて苦しそうな顔だった。
☆ ★ ☆ ★
父は40代半ばで結婚したから、私とはずいぶん年が離れていた。
同級生の父親より、一回りも二回りも年上で、子供の頃はそんな年寄りな親が恥ずかしくて嫌だった。
友達の若いお父さんが羨ましくて仕方がなかった。
父は物静かな人だった。
生き方が不器用な人でもあった。
父は若かりし頃、当時の多くの若者と同じように徴兵され、戦地(南方)へ赴き、外地で終戦を迎えた。
その頃の苦労を、父はほとんど語りたがらなかった。
戦争について何かを発言することもしなかった。
タンスの小引き出しには、父の勲章が仕舞われていた。
それは、父と戦争を結びつける、たった一つの形だった。
その大切な勲章を私が勝手に胸につけ、友達と戦争ごっこをしたことがある。
普段おだやかな父は、私を叱った。
父の顔には、怒りではなく、涙がにじんでいた。
その涙の意味を、私は何も分からなかった。
☆ ★ ☆ ★
父や、当時の男たちは、人を殺めたいために銃を手にしたのではない。
一銭五厘の赤紙と呼ばれる召集令状によって召集され、命を賭けて祖国や家族のために戦ったのだ。
戦わされたと言ってもいいだろう。
政治や歴史では取り残されてしまいがちな、個人の物語がそこにはある。
国や社会に翻弄され、抗えない運命が。
戦争を知らず今の平和を享受している我々に、当時の事をとやかく言う資格のある者は誰もいない。
私も、もちろん戦争を知らない者の一人だ。
私は、戦争なんて断固反対する。
だから軽々しく交戦を支持する者を、軽蔑する。
それがどのような国家体制であれ、思想や人であれ。
「気に食わない国は武力で制圧してしまえ!」
そんな発言を軽々しく口にし、それを勇ましいと勘違いしている愚か者たち・・・
戦争と言うものは、家族や友人や恋人や、あらゆる関係を引き裂いてしまう。
悲しいものなのだ。
そしてまた、どんな思想や信条であれ、戦争で苦労された人たちを冒涜するような言動や行為は、決して許されない。
それを忘れてはならないと思う。
☆ ★ ☆ ★
「お父ちゃんも、人を撃ったことあるん?」
そう聞いたあの日に帰れるなら、愚かだった私は父に土下座して詫びたい。
自分で自分をぶん殴りたい思いにかられる。
子供だから無知だからと言って、何を口にしても許されるわけではない。
無邪気さは、時には残酷さを生む。
現代の平和は、尊い数多くの方の犠牲の上に成り立っていることを、絶対に忘れてはならない。
戦争を体験した方々、戦火で命を失った人たちはもちろん、戦地へ赴き銃を手に命をかけ散った人も、命からがら帰国した人も、同じくまた犠牲者である。
父が病気で他界してから二十年近くが過ぎた。
貧乏な中、身を粉にして家族を養ってくれた父。
何の親孝行もできずじまいだった。
父の子としてこの世に生を受けた私は、今何より父を誇りに思う。
「本当にありがとうございます」
今年もまた、その一言を父に捧げたい。
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戦後78年目の夏。
戦争、疫病、カルト・・・
国内外で様々な出来事が起きている。
人の心も疲弊し、出口の見えない闇の中、多くの者がもがいている。
こんな世の中だからこそ、よけいに、人を思いやる心を大切にしたいと感じる。
幼かったあの日の夏、そして今年の夏。
夏は途切れることなく、ずっと続いている。
人と人との絆もまた、つながっている。
時空を超えて。
平和を祈念しながら。