父と傷痍軍人の思い出
その年の夏も暑く、蝉の声が青い空に響き渡っていた。
私は小学校三年生だった。
「怪獣映画でも観にいこうか」
珍しく父が私を誘う。
私は父が苦手だった。
大正生まれの父は四十代で結婚をしたから、同級生の父親より年齢が一回りも二回りも離れていて、そんな「年寄りの父」が、子供だった私には、かっこ悪い存在であった。
父は、無口で武骨な人だった。
生き方が下手で、人付き合いの苦手な人でもあった。
だから
「映画にいこう」
と言われても、嬉しさより気まずさを私は覚える。
昭和四十年代、高度経済成長時代と呼ばれていたが、大阪の一画にある私の住む町は貧乏長屋がひしめき(私の家もそのひとつ)、道路は砂利道、木の電柱や円柱型の郵便ポストが並ぶ、そんな風景があった。
バスに揺られてとなり町へ。
そこはコンクリート製の電柱がたち、ポストも四角い最新型。
それだけで、随分と開けた感じが漂っていた。
映画館の前に、汗と脂で汚れた白衣を着たひとりの傷痍軍人さんがハーモニカを吹いていた。
甘く切ない曲調だった。
その人は片足は義足、顔には紫色の火傷の痕がある。
子供だった私には怖いものに見え、身震いをした。
その当時、戦争で傷ついた元軍人が生活の糧を得るため、町なかで楽器を演奏している姿を見る事があった。
「傷痍軍人(しょういぐんじん)」
と呼ばれた人たちだ。
中にはインチキな傷痍軍人もいたそうだが、それはこの日記とは関係のない事だから触れない。
父は足を止めその元軍人さんを見つめていた。
「お父ちゃん、早く映画を見ようよ」
私はせかすが、父は微動だにしない。
父はつかつかと傷痍軍人へ近づいた。
「おい〇〇じゃないのか!?」
名前を呼んだ。
驚いた軍人さんはハーモニカの演奏を止めた。
しばし二人は見つめあう。
父と軍人さんの頬に涙がつたった。
お互いに手をとりあい
「苦労したな」
「貴様もな」
声をかけあう。
私には意味がわからず、茫然とするだけだ。
父はズボンのポケットから財布を取り出し、それごと軍人さんへ差し出した。
「少ないがこれで何か食ってくれ」
軍人さんは静かに頭をさげた。
しばらくして父と私はその場を離れる。
「ねえねえ、あの人は誰なん?」
私が尋ねると
「同じ部隊にいた戦友だ」
ぽつりと父は答え、それ以上は口にしなかった。
当時の多くの若者と同じ徴兵された父は、戦時中の話をほとんど私にしたことがない。
タンスの奥にしまった勲章を時おり取り出しては、寂しそうな表情で眺めている事はあったが…
けっきょく財布をすべて渡したから映画を観る事は叶わず
「嘘つき、お父ちゃんの嘘つき!」
泣きながら私は父をなじった。
父はズボンのポケットをまさぐった。
10円玉が一枚見つかったがそれではバスにも乗れない。
父は苦笑した。
タクシーを拾ったが、父が後払いを頼むと走り去ってしまった。
太陽が照り付ける焼けた道を私たちは歩いた。
「疲れたよう、もう歩かれへん」
私は座り込む。
本当は疲れていたわけではなく、単に父を困らせたかっただけだった。
「喉が渇いたよう、ジュースが飲みたい」
ひたすら私はぐずる。
父は10円で、そばにあった駄菓子屋で粉末ジュースを買った。
駄菓子屋のおばちゃんにコップを借り、水で粉末を溶かす。
生ぬるく水くさい飲み物を私は喉へ流し込む。
喉の渇きは癒えず、私の心も晴れなかった。
父は私を背負い、何キロかの帰り道を歩いた。
痩せた、でも逞しい父の背中に汗が多量ににじんでいた。
今思えば父の苦労や優しさに思いを寄せられなかった私は愚かものである。
言葉にできない苦労を、父は、そしてあの傷痍軍人さんは味わったのだ。
祖国や家族のために命をかけて戦った。
そんな父もこの世を去りもう10年以上になる。
私も今あの頃の父と同じくらいの年齢となった。
到底父の存在には追いつけないままだ。
生前苦手だった父を、今私は誰より誇りに感じている。
今年は戦後七十年をむかえる。
私はもちろん戦争を知らない。
だけど、今私たちが享受している平和は数多くの尊い犠牲と苦労の上に成り立っていること。
これだけは忘れてはならないと思う。
父が戦時中を過ごした夏。
私が幼かった頃のあの夏。
そして今年もまた暑い夏。
夏はずっと繋がりあっている。
昔も今も、そして未来へと。
長い日記を読んでいただき感謝します。
コメント
2015/08/06 21:37
23. >>19
MIN
さん
ありがとう。
我々戦争を知らない世代は、その時代を生きた人を通じて間接的にしかわからない。
だからこそよけいに、体験者から語られる声には真摯に耳を傾けたいと思う。
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2015/08/06 21:13
22. >>18 大阪joeさん
あの当時、町なかで普通に見られた光景でしたよね。
確か昭和30年には「もはや戦後ではない」とか言葉が言われていたそうだけど、戦争の傷痕は、40年代にもあちこちにまだ残っていた感じもある。
何より、戦争体験者が国民の大半を占めていましたものね。
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2015/08/06 21:09
21. >>17 ニャンタさん
そやろ、子供の頃に友達の若いお父さんを羨ましく感じたりしたよな。
今考えたら、あほくさい考え方なんだけどね。
時間を経て、俺たちの価値観も変化してきた。
それは大人になったととらえるのか、年老いてきたと考えるのか。
前者でありたいね。
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2015/08/06 21:06
20. >>16 美冬さん
その通りだね。
歴史を考える時一番よくないのは、今の価値判断をそのままあてはめてしまうことだと思う。
父たちの時代に思いを馳せる時、そこにいた人の声を少しでも拾い上げられたらと考えている。
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2015/08/06 18:45
19. 久しぶりにいい日記を読ませて頂きました![[ぴかぴか(新しい)]](https://img.550909.com/emoji/ic_pikapika.gif)
戦友同士、
余計な言葉なくとも
通じあう。
そんな時代に生きてきた先輩方。
そして、未来を担う後輩たちに、
今、自分が残せるものは何だろう…?
夏になると必ず考えている自分がいます。
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2015/08/06 17:44
18. 子どもの頃
あべのの陸橋のところで
よく「戦傷者」と木札を建てて
むしろの上に座ってる人がいました。
その頃のことを思い出します。
父や母はいつも小銭を入れてました。
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2015/08/06 17:38
17. おう!
兄弟!
やっぱり俺と似てる(笑)
大正生まれの親、父兄参観でお爺ちゃんぎ来たと思われる。
父をなじる、恥ずかしく感じる、そして自分の愚かさを今頃わかる。
それが俺。
ガロンはちょっと違うかも知れないけど、何か共通する所多く思います。
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2015/08/06 17:33
16. 親が 色々経験して
いる事 言葉にはいえないですが
その、時代にしか
解らない苦悩 あったとおもいますが
その血を受け継なぎ
今の時代に
解って貰えれば
幸いです
昔は電気もない
水道もない
ガスも、ない
今のハイテクの、時代
と、違い ラジオもなかったから
戦争と、いう、言葉には どこまで
知られているか
父がお祖父様がいるから、自分がいるのです!
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2015/08/06 14:52
15. >>14 春瀬
さん
身に余るコメント、光栄です!
ありがとうございます。
春瀬さんのお父様も大正生まれだったんですね。
激動の時代を生きてこられた。
息子というのは、どこかで親父の背中を追い続けて生きている存在、なのかも知れませんね。
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2015/08/06 14:33
14. こんにちは![[exclamation]](https://img.550909.com/emoji/ic_biccuri.gif)
いい日記ですね
私の父親も
志願して
北京方面へ。
無事帰国して
北海道の
木材会社員へ。
80歳で
亡くなり
ましたが、
もっと親孝行
しておけばと
思う今日
このごろです。
ガロンさんの
日記の中で
3番目にいい
日記だと
思います
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