みんな知ってる?簡単ではない沖縄基地問題④~沖縄の歴史!!琉球國(薩摩侵攻~本島決戦)編
1609年
薩摩は琉球に侵攻した
そして…
奄美諸島を瞬殺占領した薩摩島津軍は沖縄本島を目指して海路出撃した
3月25日、沖縄本島の名護、古宇利島に薩摩兵3000が上陸する
対する琉球軍は名護親方良豊率いる正規兵1000を北部防衛に急行させ、決戦を挑んだ
薩摩島津軍はめちゃめちゃ強敵で、戦国時代に多くの戦闘を経験し勇猛果敢で知られ戦国最強の軍隊でした
例えば、朝鮮出兵時に泗川の戦いで薩摩兵8千で明・朝鮮連合軍4万を撃破し、3万の首をあげています
恐るべき攻撃力です
今回の琉球侵攻軍は総大将の樺山久高など泗川の戦い経験者が多数参加していて、実戦経験のない琉球軍など鎧袖一触だったのでしょう
でも琉球軍は北部防衛戦でよく戦いました
薩摩兵を100~200名も戦死させたのですから・・全体の5%くらいだね
一方、琉球軍は半数の兵を失い・・
総大将は捕虜になり北部の太守は戦死し、防衛軍は壊滅しました
薩摩軍は北部の拠点の今帰仁グスク城に進撃し、それを占領
琉球軍残党は城を放棄し那覇に敗走しました
薩摩軍は、このとき方々で放火や略奪・拉致などの狼藉を働いています
伝承にも残っています
戦国時代の日本では敵地での略奪・拉致などは雑兵の権利として一般化していて、これを目的に参加する兵もいました
琉球侵攻前に定められた薩摩軍の軍規では琉球人への乱暴、狼藉は禁止されていたが、残念ながら守られることはなかった
琉球側は和睦の使者を派遣するが、薩摩側は交渉を拒否しています
薩摩軍は再び海路で南下し読谷に上陸・・
そこから軍を二手に分けて陸路と海路で那覇に向かいます
そのころ那覇では薩摩軍の来襲の知らせで住民はパニックになり、避難する人でごった返していました
4月1日那覇港に海路の薩摩軍が到着・・
軍事要塞がある港には琉球正規軍3000が守っていて、鉄鎖で港を封鎖してあり、両側から大砲による砲撃で軍船の侵入を阻止していた
一方、陸路の薩摩軍は浦添グスクと龍福寺を焼き払い、首里に向かい南下してました
琉球側は那覇に主力を集めていたので、沖縄中部には兵を配置してなく・・
首里の入口にあたる最終防衛ラインの大平で決死隊100名が守備をしていたが、薩摩軍の鉄砲の前に壊滅した
薩摩軍は、そのまま首里に突入し首里城を包囲!!
城への侵入を試みるが失敗・・
兵たちは首里、那覇の市街地に乱入し放火、略奪、拉致、殺人、暴行・・思い思いの狼藉を働き始めました
市内は阿鼻叫喚、地獄だったでしょう
さすがの薩摩側も市来家賀らの兵を向かわせ制止させようとしましたが、統制がとれず・・
聞得大君御殿、仙福庵、豊見城親方の宿所、那覇の広厳寺、多くの民家などが灰燼に帰し、貴重な宝物、文書なども火災で失われました
4月3日・・琉球国王尚寧王 降伏
4月4日・・首里城明け渡し(王退去)
4月5日・・薩摩軍 城占領、宝物没収
5月15日・・尚寧王 供100人連れて薩摩に出発、薩摩兵撤兵
翌1610年8月28日・・尚寧王 将軍徳川秀忠に謁見(駿府では徳川家康に謁見)
1611年・・尚寧王 琉球に帰国
<琉球侵攻の結果>
島津は琉球の支配権を手に入れる
琉球は奄美諸島を島津に割譲させる
琉球は島津に忠誠を誓う起請文を提出する代わりに国家の存続を認める
琉球の貿易は薩摩が監督管理する
琉球は幕府に使節を贈る義務を負う
琉球は島津に貢物を毎年贈る義務を負う
琉球の中国との朝貢貿易は薩摩が管理する
・・・などである
薩摩は中国との貿易が目的で琉球に侵略し支配した
そして琉球を傀儡国家として国を存続させ、また中国の柵封もそのままにして朝貢貿易を続けさせた
その朝貢貿易を薩摩は管理し莫大な利益を得るのである
いわゆる密貿易である
幕末の倒幕の原動力になる莫大な資金も密貿易から得ているという話だ
琉球は中国(明→清)と薩摩の二重支配をうけるのである
<つづく>
次回は明治の琉球処分の話・・いよいよ日本へ編入
コメント
2012/06/16 6:40
4. >鷹の爪(改め、困ったちゃん)さん
![[ぴかぴか(新しい)]](https://img.550909.com/emoji/ic_pikapika.gif)
分かった
また見に行く
返コメ
2012/06/16 1:38
3. >あかぎさん
琉球王国の登場人物
更新しときまちた
返コメ
2012/06/16 1:30
2. >鷹の爪(改め、困ったちゃん)さん
そうなのかぁ
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2012/06/16 0:59
1. ちなみに、『花の慶次』の妻は、尚寧王の元カノでつ。
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