読書ノート『言葉の樹』
30代後半  埼玉県
2021/01/01 21:36
読書ノート『言葉の樹』






心の余白に、思いだすままに、いくつかの言葉を書く。ふっとその言葉を書いてみたくなって書く言葉。「樹」という言葉は、わたしにはそんな一つの言葉だ。


ただ、「樹」と書く。それだけだ。そう書いて、その言葉を見ている。すると、目のなかでゆっくり「樹」という言葉が解け、字面が溶けてゆく。水のように滲み、それから根づいてくる


言葉の毛細管の非常に細い一本一本が、しっかりと心のなかに張ってくる。それはやがて、静かにもりあがってくる。葉がひろがってくる。さわさわ、と葉がたがいに擦れあう音が聴こえる。沈黙のように聴こえる。目のなかに突然、いっせいに葉群らがひるがえって、光る。風を感じる。おおきな樹が生まれ、おおきな樹から、さらにおおきな影が生まれる。


「樹」という言葉は、ただの一語にすぎない。ただの一語にすぎないけれども、しかし、そのただ一語を書くだけで、明るい日差しの下の、おおきな樹の下の、おおきな影のなかに、わたしは入ることができる。たとえ、どんな深夜にも。



ほんとうは、「樹」という名の木なんて、実際はどこにもない。あるものは桜の木であり、楢の木であり、榛の木であり、ヒマラヤ杉である。つまりそれぞれに、それぞれの名をもった木だ。「樹」という名の木は、だから結局、一人のわたしのなかにしかそだつことのない「樹」だ。「樹」という言葉であるだけだ。


ときどき、じぶんのなかに幻のようにそだつこの「樹」は、いったい何の木だろう、と考える。確かにこの「樹」は、いつも枝ぶりも影も変わらない「樹」なのだが、どう考えても、この「樹」の名は「樹」としてしか、わたしには思い浮かばない。


やっぱり「樹」でしかないのだ。だから、「樹」とだけ書く。疲れたとき、「樹」と書く。ただそれだけで回復するじぶんを感じる。わたしはこの「樹」が好きである。この「樹」に上ったり、下りたりすることが好きである。そして、この「樹」がつくるおおきな影のなかで眠ることが、好きである。


どんな園芸家も、見えないこの「樹」をそだてることはできない。どんな都市計画も、見えないこの「樹」を伐り倒すことはできない。この「樹」は言葉なのだから、この自由の木の根を涸らしさえしなければ、心に影なすこの「樹」がくれる大切なものを失うことは、きっとないだろう。







長田弘 著『私の好きな孤独』潮出版社


「言葉の樹」全文













上記の文章は私の愛読書、『私の好きな孤独』の冒頭の文である 



著者自身による序文とは、叙述の総論であることが多い 『私の好きな孤独』収録の「言葉の樹」も明記はされていないが、おそらく総論に相当する


本書の目次を開くと三章からなることがわかる
冒頭の「言葉の樹」は一章に含まれず、主題の書かれた頁を捲ると、徐(おもむろ)に一つの詩文として置かれている


その佇まいは、著者の意図する「孤独」の気配を確かに伝えてくる


流し読みをすれば、「樹」という象形文字から写実的な想像力をかきたてられる、というだけの話である そうして心に結んだ光景とは、自分固有の世界であり、何人たりとも侵しがたいものである……というのが、私の雑な要約である


設問の答案を書くだけであれば、何のことはない、わずか二頁の短文であり、小学生レベルのやさしい文章でしかない




ここで私は江戸時代初期の儒学者、伊藤仁斎の著書『童子問』の言葉を引く



「一見して少しも難しいところがなく、日常の言葉で書かれていて気張らなくてもすらすら読める文章は、そこに込められている深い意味に気付かない」


「常識や定説から逸脱し、これでは意味がよくわからないと匙を投げたくなる論説は、実はかえって理解しやすい なぜなら、言葉が複雑に込み入って桁外れに奇をてらった新しい見解は、熟考の結果ではないから根が浅い ひねくれた思いつきを基礎に展開しているから、その意図さえ察知できれば、たちまち論理が氷解してしまうからである」


「難解な叙述は、大抵要領を手掴みにできるが、『論語』のようにやさしい文章は言葉を覚えただけでは肝心の意味を把握することはできない」






「言葉の樹」はとてもやさしい、平易な文章である 要約もしやすい 奇をてらったひねくれた表現など微塵もない それでは、この文章は何を云おうとしているのか?この詩文は一冊の総論だと私は言った 本書を手に取った人々に、この本を読むことにどのような価値があるのかを理解させるか、少なくとも考えさせたとき、冒頭に置かれた「言葉の樹」はその役目を果たしたことになるのだ









※ここで、時間に余裕のおありの方は再度本文を読まれてはいかがか








言葉とは、自分の意思、思考を表現し、他者へと伝達し、共有するための道具である、と今私は言おう



ところが著者は「樹」という一字から、上記の他の機能を感じ取っている それのみならず、私の述べた機能とは正反対とも言うべき性質を述べている



第一に著者は、「樹」という言葉を誰かに伝えるためではなく、自分自身を癒し、楽しむために書いている


「疲れたとき、「樹」と書く。ただそれだけで回復するじぶんを感じる。わたしはこの「樹」が好きである。」


著者にとって、冒頭に述べた「樹」を含むいくつかの言葉は、自分を回復するための道具であるという




第二に、「ほんとうは「樹」という名の木なんて、実際にはどこにもない。」


「「樹」の名は樹としてしか、わたしには思い浮かばない。」


「どんな園芸家も、見えないこの「樹」をそだてることはできない。~この「樹」は言葉なのだから」






著者のいう「樹」とは名前も品種もない
つまり実体を持たない

著者の心に結ばれる音、光、風、影、そのすべてを他者が剰すことなく心に描き切ることはもとより不可能であるのだが、著者自身も「樹」そのものを他者と共有しようとしていないのである 終いには著者の「樹」は「言葉」であると言い切る 言葉を用いて表現しながら、本質的に「樹」を伝えようとしていなかったのである




私は先に、そもそも言葉とは自分の意思、思考を表現し、他者へと伝達し、共有するための道具であると言った 実際に、大概誰もがそうした道具として言葉を用いている


けれどもそれは言葉の一側面でしかない



世界は言葉で作られている こう言うと首を傾げる人が多いのは、その人の捉える世界が余りにも物質的である証明である 人は言葉によって思考し、思考によって行動し、生命活動を行うのだから、言葉で世界が作られていると言っても過言ではないのだ






言葉に作られるこの世界とは、これまで生きた人、今を生きる人の思考の数だけ存在し得る極めて重層的な世界である どれほど親しく近しい意見と心を持ち寄ったところで、人と人とが寸分の狂いなく理解し合えることは有り得ない孤独な世界である その果てしのない孤独を吟味することなく、少ない語彙を頼りに無意味な唄を歌いながら暮らすことも可能であろう そうして互いに互いを理解し切った錯覚の世界に棲むことを孤独の極致と知ればこそ、人は言葉を磨くのではなかろうか



本書の効能とは、普段自分がつかっている何気ない言葉の一つひとつに、いかほどの意味を詰め込んでいるかを知らせてくれること つまり、自身の言葉に対する感性を鏡に照らして見せてくれることだ



著者の謂う所の「樹」とは、つまり言葉の綾であって、本当は何でもよかったのである 人それぞれに気に入りの一字を取り出して書き出してみればよい 著者の教えてくれたこととは、一字のなかに少なくとも二頁に及ぶ世界が構築されているということである


私達が生きる世界とは、初めて天と地とが別れた瞬間からあやふやで、たよりない、極めて不安定なものに過ぎない





最後に、古事記の言葉をここに引く




ここに天神(あまつかみ)諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、イザナギノミコト、イザナミノミコト、二柱の神に、


「このただよへる國を修理(つく)り固め成せ」と詔(の)りごちて、

天沼矛(あまのぬぼこ)を賜(たま)ひて、言依(ことよ)さし賜ひき







一冊の本には無限の可能性が眠っている


言葉が変われば心が生まれ変わる

心が生まれ変われば行動が変わる

行動が変われば、どうして人生が変わらない筈があろうか













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