八事山興正寺の普門園
名古屋の八事(やごと)に「八事山興正寺」という、県内ではとても有名な真言宗のお寺があります。
当寺は、徳川御三家の一つ尾張徳川家の祈願所として手厚く庇護されたお寺で、歴代の尾張藩主の中には、境内にある「能満堂」というお堂に籠り、仏道の修行に励んだ殿様もいたそうです。
この興正寺に、数寄屋建築・茶室・日本庭園などがある『普門園』という施設があります。
この普門園(ふもんえん)を拝観するために、先日興正寺へお邪魔しました。
先ずは、竹翠亭(ちくすいてい)という茶室を兼ね備えた数寄屋建築を拝見します。
この竹翠亭は、大正時代に海運業で財を成した、“岐阜の海運王”こと日下部久太郎(くさかべ・きゅうたろう)の本邸の一部を、ここ興正寺へ移築したものです。
この日下部久太郎が、いかに羽振りが良かったかが分かるエピソードを、一つだけご紹介します。
それは大正六年のこと。
岐阜税務署の所得調べによると、久太郎のその年の所得は約50万円。
これを現在の貨幣価値に直すと、約100億円に相当するそうです。
それまでの岐阜県下の長者番付の第一位は、貴族院議員で織物業を営んでいた渡辺甚吉。
この織甚(おりじん)こと、「織物業の甚吉さん」の大正六年の所得が約八万円。
つまり、今まで岐阜県下第一位の長者であった織甚の六倍強の所得を、久太郎はその年に稼いだことになるのです。
当時の新聞の投書欄には、久太郎と織甚を詠んだ、こんな戯れ歌が掲載されたそうです。
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日下部ダンナにァ及びもせぬが
せめてなりたや織甚に
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では、もともと岐阜県にあった日下部邸の一部が、なぜここ愛知県の興正寺へ移築されることになったのか?
それには、こんな話があったのです……
老朽化して、管理維持が困難となった日下部邸に取り壊しの話が持ち上がりました。
日下部久太郎の孫である泰雄氏は、先祖より受け継いだ建物を何としてでも守り抜きたいと、ついに行動をおこします。
泰雄氏が向かった先は、和歌山県にある徳川家の総菩提寺、高野山別格本山蓮花院でした。
泰雄氏は、「先祖より受け継いだ建物を永代的に保存してもらいたい」との気持ちを、ここ蓮花院の当主に伝えたのです。
泰雄氏の熱意に打たれた当主は、この旨を快諾しました。
岐阜にあった日下部邸は、もともと二階建ての家屋でした。
日下部邸の二階部分は蓮花院へ移築し、一階部分の建物はこの蓮花院の姉妹寺である八事山興正寺が引き受けることになったのです。
昔の建築物が、財政上の問題から保存できずに、解体の憂き目に遭うという話をちょくちょく耳にします。
広大な敷地を持つ神社仏閣が、かような悲運を辿りそうになる建築物の受け入れ先となることが、しばしばあるんでしょうね。
竹翠亭のような大正時代の名建築は、ひとたび解体されて灰となってしまったら、再び元には戻せませんから……。
このような形であれ、建物が保存されたことは喜ばしいことですね!
前置きが長くなったので、竹翠亭などの詳細は、次の日記でお話したいと思います。
コメント
2017/05/06 7:50
2. >>1 さもはんさん
おはようございます!
コメントありがとうございます!
そうですかあ、八事が地元なんですね。
縁日などのイベントがあると、混雑しそうですね。
返コメ
2017/05/06 7:45
1. 地元です。
昨日は5日。縁日だったので行ってきました。
まぁ、すごい人でした。
返コメ