竹翠亭と想耕庵
前回の日記で書いたように、もともと竹翠亭は、「岐阜の海運王」と呼ばれた日下部久太郎の岐阜本邸の一階部分にあたる建物です。
竹翠亭内部を、ざっくりと説明するとこんな感じ。
まず、玄関で靴を脱いで上がると、五畳敷の空間があります。
この五畳敷の空間を真っ直ぐに進むと、縁側まで畳廊下が続いています。
五畳敷と縁側まで続く畳廊下を境界線にして、左右に四つの部屋がある。
玄関を上がって右手側には、三つの部屋があります。
では、手前の部屋から見ていきましょう!
台目床のある、タタミ六畳の部屋は煎茶用のお茶室として使われていたようです。
煎茶道では通年、風炉を使用するため、この六畳間に炉は切られてはいません。
雪見障子のはまった窓からは、白砂と苔と岩で、海と島と山を表現した枯山水の庭が見えます。
次の部屋は、仏像を安置した仏間。
三つ目の奥の間は、一畳の床の間と、違い棚・天袋・地袋を設えた脇床のある八畳敷の部屋で、タタミには炉が切ってあります。
玄関を上がって左手側は、一番奥の部屋しか見学できません。
左手側にある奥の間は、台目床のある八畳間で、ここにもタタミに炉が切られています。
煎茶用の茶室が一つに、タタミに炉が切られた部屋が二つ。
これらの部屋の構成から、お茶会を催したり、大事なお客を茶の湯でもてなしたことが窺えます。
この竹翠亭、数寄屋建築だけに、様々な箇所に趣向を凝らしています。
天井を見てみると、煎茶用の部屋は、皮付きの細い丸太を使った棹縁(さおぶち)天井、仏間は格子状の格(ごう)天井、八畳の奥の間は、白木の角材を使用した棹縁天井と、部屋ごとに違うのです。
長押(なげし)に竹を使ったり、襖の引き手金具が、部屋によって意匠が異なっていたりと、注意深く眺めていくと、なかなか面白いですよ!
奥の間を出て、縁側を少し進むと左手に、短い渡り廊下が見えてきました。
この渡り廊下は、想耕庵(そうこうあん)というお茶室へとつながっています。
竹翠亭は大正時代の初めごろの建物で、この想耕庵は昭和三十一年に建設された茶席で、もともと興正寺所有の建築物。
平成大改修の際に、現在の地に移されました。
想耕庵は、八畳の広間・三畳台目の小間・水屋からなっています。
三畳台目の小間は、少し変わった造りで、床の間がありません。
床の間は無いのですが、客畳の隅に不等辺三角形の板が一枚入っており、壁には蛭釘(ひるくぎ)が一つ打たれています。
茶会のある時は、板に花入れや香炉を置き、壁の蛭釘にお軸を掛けて、床の間の代わりにするのでしょう。
この小間には、躙口(にじりぐち)があるので、竹林を通って露地に至り、ここから席入りするのでしょうね。
想耕庵には、もう一つ特筆すべき点があります。
想耕庵の屋根瓦は、緑色の織部焼なんですよ!
屋根の突端にある、火難除けの竜神様も織部焼なんです。
飛石を配した苔庭の遥かむこうには、興正寺の五重塔が見えます。
苔庭を眺めていると、時おり竹林を抜けて渡ってくる涼風が、初夏の暑さを和らげてくれる。
「静かだなあ」という胸の内の声さえも、ハッキリと聞こえそうなほど、静寂で心落ち着く場所でした。