先ごろ、天皇皇后両陛下が平和を祈られたパラオ共和国への慰霊の旅がありました。
両陛下の御行啓によって、パラオ国旗の由縁をはじめ、英霊がペリリュー島の島民の人々からいかに讃えられてきたかが知られたのかもしれません。
昭和56年1月、パラオ共和国が誕生した時、日の丸をデザイン化した国旗を制定します。
それと共に、パラオの人々は独立を記念して、ペリリュー島守備隊を讃える歌も作りました。
舩坂弘著『血風ペリリュー島』の「はしがき」の末尾に載っているので、ここに紹介します。
作詩者はペリリュー島のオキヤマ・トヨミ氏、ショージ・シゲオの両氏。作曲者は同島小学校副校長、ウィンティ氏です。
(舩坂弘氏については、「最強超人伝説『生きている英霊』と呼ばれた男」で日記に書いたことがあります。ご参考まで
http://diary.550909.com/3d089e09/6590382 )
「ペリリュー島の桜を讃える歌」
一
激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
オレンジ浜を血で染めた
強兵(つわもの)たちはみな散って
ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる
二
小さな異国のこの島を
死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち
弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない
三
将兵(ヘいし)は”桜”を叫ぴつつ
これが最期の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ
別れの”桜"に意味深し
四
日本の”桜"は春いちど
見事に咲いて明日(あす)は散る
ペ島(じま)の”桜"は散り散りに
玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に
五
今守備勇士(もののふ)の姿なく
残りし洞窟(じんち)の夢の跡
古いペ島(じま)の習慣で
我等勇士の霊魂(たま)守る
六
平和と自由の尊さを
身を鴻(こな)にしてこの島に
教えて散りし"桜花"
今では平和が甦る
七
どうぞ再びペリリューヘ
時なし桜花(さくら)の花びらは
椰子の木陰で待ち佗(わび)し
あつい涙がこみあげる
八
戦友遺族の皆さまに
永遠(いついつ)までもかわりなく
必ず我等は待ち望む
桜とともに皆さまを
ペリリュー島を守備した水戸の第十四師団座下の歩兵第二聯隊を主力とした地区隊(隊長・中川州男(くにを)大佐)一万二千名は内部に深く洞窟を構築し、日本軍として初となる非正規戦、つまりゲリラ戦術で徹底的に抗戦しました。
この戦闘の様子を米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ提督は、著書『太平洋海戦史』の中で次のように結んでいます。
「ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約40%)を甘受しなければならなかった。既に制海権制空権を持っていた米軍が、死傷者あわせて1万人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは、今もって疑問である」
そして、上陸した米軍により破却された南洋神社に代わり、昭和57年5月に「青年神職南洋群島慰霊巡拝団」二十名が、舩坂弘氏の助力を得、すべて日本から運搬した材料を使い、島民の多大な協力を得てペリリュー神社が創建されました。
御祭神は天照大神と、戦死者一万余名の「護国の英霊」です。
神社前の左の掲示板には、ペリリュー島のイサオ・シゲオ尊長(そんちょう)によってこれらの趣旨が書かれています。
右の掲示板には、戦闘の経過が要約され、米国公刊戦史に載っているとして、次の詩的な一文で結ばれています。
「諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本国人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ__米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ」
"Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island. Pacific Fleet Command Chief(USA) C.W.Nimitz"
この詩は、戦が終ればかつて敵であった日本軍の忠勇武烈ぶりを讃えています。
そして、ペリリュー島を訪れる旅人に、その勇戦ぶりを伝えてくれ、と戦死者に代って願っているのです。
戦後70年の今。
天皇陛下の御言葉により、パラオ守備の任を解かれた護国の英霊は、ようやくすべてが靖國に集えたと思います。